update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ Aug. / 1999 |
8.10/1999 | ■ シミュラクル |
更新情報 |
◆「第一部・完」のページと「第二部スタート!」のページについてexternal linksを更新。 |
▼8月に入ったやいなや下関に行ったと思えば次の週にはビッグサイトにいたdotimpactです。研究会での発表とかレジンの固まり即売とかで、ちっともゲームではない日々です(ワンフェスでは見たところまだシーマンを作ってるディーラーはいないようでした。冬じゃあ遅い気がするけどなあ…)。
ちなみに、この夏はさらに、はじめてコミケにも連れてってもらえることになったので、ゲーム系の本はいくつか買ってみたいと思います。
▼そんななかF355チャレンジなどをプレイしてみました。初級のアシスト全付きでオーバル(もてぎ)を走ったりするとほとんど(一般的な意味では)ゲームじゃないというか、自分がなにをしているのかわかんなくなります。ポールポジションとか、ウイニングランを初めてプレイしたときの感覚に似てます。「あれ、これで全部っすか?」というような。
「似ている」と感じたのはきっと、「プレイ中音楽がない」ということも大きいとは思いますが。
シミュレータ指向のアーケードレースゲームに思うのは、精度をどれだけ上げていっても、そこらの遊園地でゴーカートに乗ったほうが、レーシングマシンに乗るという感覚は正確にシミュレートできていることになるだろうなあといったことです。当り前ですが。
ところが、シミュレータ指向でないアーケードレースゲームをプレイする感覚は、シミュレータ指向のアーケードレースゲームをプレイする感覚よりむしろ、ゴーカートに乗っている感覚に近いでしょうから、逆説的によりレーシングマシンに乗る感覚を正確にシミュレートしていることになるのではないかと思うのです。いや、詭弁ですけど。
ともかく、(特にアーケードの)シミュレータをプレイする僕は、そのような「リアルな気分」とは別のことを考えざるをえません。つまり、「どこが似てるか」より、「どこが違うか」を考えるわけです。もっと大胆にいうと、その「違和感」を楽しんでるんではないか、とすら思います。少なくとも、ポールポジションとかウイニングランを「うまくなりたい」と考えたことはなかったのだけど、ゲーマーの方は違うのかしら。
▼あと、消防士は好きです。タイムクライシスみたいで。つうか、もっとタイムクライシスみたいだとよかったのかもしれない。
8.11/1999 | ■ タイマ・インタラプト |
▼そういえば、パッとしませんでしたがタイムクライシスはかなり好きなゲームでした。
ダックアクション(?)のためのペダルはガンシューティングゲームの色々な単調さを解消してて素敵だったし、いろんな意味で「時間と戦う」という統一されたゲームデザインはプレイヤーの僕が何をすればいいか明確で爽快。タイムアタックモードでシーンごとにリアルタイム(?)でランキングが表示されるあたりなんかもカッコ良くてもう大好き。タイムクライシス2はそのへんの僕の好きだった部分がなくなっててたいへん悲しく思ったのですが。
そしてそのうえ、タイムクライシスで僕がイカしてると思っていたのは「映画」がらみの演出なのでした。実に忠実であるオープニングの「予告篇」をはじめいろんな部分で、タイムクライシスはゲームの楽しみの上に「映画」の楽しみをうまいことのっけていたと思うのですが、このゲームはさらに複雑なことに、各シーンの始めのところで「アクション!」というヴォイスが入るのですね。つまり、ゲームが「ゲーム」で「映画」なだけではなく「撮影」である部分もあることを示唆していた、とか言えたりしないでしょうか。言えないですか。
ともかく、ゲームのスタートを「アクション!」と表現するのは妙にしっくりくると思いましたよ。ちなみに、プレステ版はやったことないのでどうなってるのか知りませんが。
8.15/1999 | ■ ボーイ・ミーツ・ガール(男子・肉・女子) |
▼はじめてコミケットに行ってまいりました。
はじめてなのでいろいろ驚いたのですけど、一言で尽くすなら「逃げ場がねえ」。具体的にはそれこそ目や鼻にすら。たとえば芋を洗うような海水浴であっても、裸足で砂浜を歩いたり海水に浸かったりすればそれなりに何がしたかったのかわかるというものですが、どちらかというとそういう海水浴程度の気分だった僕にとってその日のビックサイトといったら水を入れないで芋を洗っているというか行き先のわからない満員電車というか。用もないのに行くイベントではないなと思いました。今度はちゃんと用を編集したりコピーしたり綴じたりしてから行こうと思います。
そんなんで、特記するほど本も買いませんでした。ゲームデザイン入門とか究極ビデオゲームリストとか基本的なのを少し。ざるの会の方々には買ったとき挨拶したものかしらと思いましたが、気後れしたのでしませんでしたスイマセン。
どこでもいっしょを買っていればこんなボクにだって声がかけられたかもしれないのに!
ぬるいコミケレポートはこんなもんで。
▼コミケ後、縁あって「ゲームのコトバ」の矢本さんと中川大地さん、「ゲームを語ろう」の沢月さんなどの錚々たるみなさまと食事を同席させていただきました(サークル「ゲームのコトバ」の打ち上げも兼ねていたので雑君保プ先生もいたヨ! あの場で言えなかったのでアレですけど、ファンです)。
舌が巻かれるほど明晰な方々とのアルコールをまじえた雑談はたいへん刺激的でしたが、個人的に印象に残ってますのは「ゲームソフトをひとつ取り上げて評価するのって大変。ていうか無理」というような話に矢本さん沢月さんが頷いていたあたりです。やっぱそうかーと思いました。勘違いかもしれませんケド。
dotimpactはごらんの通り「ゲームソフトの評価」というのをもう最初からあきらめています。素晴らしいゲームソフトの素晴らしさ(あるいはイタダケないゲームソフトのイタダケなさ)をそのまま書くことは少なくとも現時点で僕にとってはかなり困難なことです。世にある「ゲームソフトの評価」の多くがそのへんの困難さを回避するために「余計なこと」を書くわけですが、それが「テトリスとコラムスはユングでフロイトだった!」とか「レイディアント・シルバーガンはビートマニアだった!」とかだったりするのはどうか、と思います。それで何か言えてることになるのか、と思います。僕が書きたいのは「余計なこと」ではなく、むしろその「ゲームについて書くことの困難さ」そのものだと言えます。
われわれは、実はかなり奇妙で根拠の確かめづらいもの・ことに心を動かされちゃったりしてはいまいか。しかしその奇妙で無根拠にも思えるもの・ことが、プレイヤーである限りにおいてはそうでもない、という事情がともすればゲームの一番「ゲームっぽい」部分なのじゃないか。そしてできるなら、その奇妙さとプレイヤーの気分としての自然さとの両方を見据えたかたちでゲームについて書きたい、と。「われわれはゲームになにをさせられているのか」とは、たとえばそのような意味での問いなのです。
8.22/1999 | ■ ただし書き |
▼さて、わざわざ断ることでもないと思っていたうえ、そもそもそういうことに依存することを書いているつもりもなかったので、このサイトのどこを見てもそれについて触れていなかったと思うのですが、ワタクシ、プレイステーションを所有していませんでした。先日2台持っていた友人から売ってもらいまして、ここにきてようやくプレステオーナーになったdotimpactです。いままでは研究室とか友達んちでしか遊んでなかったわけですね。「ダマされた」と思われた方がいればゴメンナサイですけど、今後何かが保証されるかというと「さあ…」というしかないということで。
ちなみに今まで買ってなかったのも信念とか遺言とか宗教上の理由(セガ信者とか)があったわけではなく、今回手に入れたのに特別の動機があったわけでもなくて、やっぱりわざわざ断ることでもないのかもしれませんが。
8.23/1999 | ■ ホチキス爆誕 |
▼どっちかというと透明グッズは好かぬのでメモリカードは不透明(白。表面が妙にマットなので色塗らないといけない感じです)を買ったのですが、ポケステはクリアボディタイプのほうががぜん嬉しい。結局中身がぞんざいなのが見えて興ざめな昨今のスケルトンとは違うわけで、「へー、こうなってるんだなあ」と感心できる小気味よいプロダクツです。あと、パッケージも好き。
さてさて。もちろんどこでもいっしょ(略称は「どこっしょ」を支持)を買いまして、さっそく犬くんの面倒をみることにしました。名前は「ホチキス」。とりあえず「いなりずし」とか「にくだんご」とか「あじごはん」とかドメスティックなたべもののことを教えてあげた次第。さてさて。
8.24/1999 | ■ 気持ちのアクションゲーム |
▼「ペット」という言葉をかなり大ザッパに使うことを断っておきますが。
まわりを見回してみると「コトバをしゃべらないペット」と「コトバをしゃべるペット」がいるようです。そしてこのふたつ(2匹かな)は、そいつをどう思うかという点でちょっと離れた意味を持つように思います。くわしくいうなら、それぞれ「しゃべらないペット」はその「しゃべらないこと」において、「しゃべるペット」はその「しゃべること」において、われわれの気持ちを動かすモノのようだ、ということです。
「しゃべらないペット」を見るわれわれは「コイツはしゃべらないけど、こっちのことがわかっているんだろうな」と信じることができます。あるいは、「コイツはしゃべらないから、どうしてあげればいいのかな」というふうに気持ちを動かすのでしょう。そして一方の「しゃべるペット」は、われわれに「コイツはこうしゃべっているけど、ホントは何を考えているのかな」というようなことを詮索させます。次に何を言うのか、という気持ちでそいつをながめるわけです。
「しゃべらないペット」は、われわれに「信頼」をさせます。そして「しゃべるペット」は、われわれに「期待」をさせるのです。もちろんこれは正確にいうなら、「根拠のない信頼」であり、「根拠のない期待」であります。言うまでもなく、われわれはそいつが「本当はこっちのことがわからない」のであり「本当は何も考えてない」のであることを十分にわかっているはずなのです。そして、「しゃべらないペット」や「しゃべるペット」が「ゲーム」であるとすれば、そのあたりの気持ちに関わるものと考えます。
これはカンですが(そんなん言ったら全部カンですが)、「愛情」は「ゲーム」と関係ないんじゃないかと。もともと根拠がないから?
どこでもいっしょのポケピは、われわれに「期待」をさせます。でも、実は、われわれは「何に」期待しているのかわからない。言い方を変えましょう。もしかしたら、「何に」期待しているのかわかるようなものは、「ゲーム」ではないのかもしれません。
8.27/1999 | ■ Welcome to the world of Ridge Racer. |
▼GΛΜΙΛΝ’ BBSに書いたことをこちらにも記録しておくものです。
R4のショートストーリーは、架空のグランプリがあり、架空のレーシングチームがあり…というのをわりとうまいことプレイヤーに伝えてる、という感触が僕にはあります(このへんは感じかたなので、全然、と思う方にはそうなんでしょう)。それはたぶん、ファミコンやスーファミで同じことをやっても伝わらないんじゃないかな、という感覚です。
あえていうなら、いまナムコがやっているチャレンジというのはそういうことだろうと思います。たとえば「コジャレたアピールはいいからもっと内容に気ぃ配れや」という意見はもっともなんですけど、はっきり言ってしまえば、そういうのはもはや黙っていてもやってくるヨノナカだとも思うのです。その意味でそれをナムコに求めるのは間違っている、のかもしれない。グランツーリスモが登場した以上、「グランツーリスモよりも面白いモノのカタチ」をナムコは提示していくことになるのでしょう。
R4の話に戻しますが、ゲームの世界において、プレイヤーという存在が「想定されていない」のが成功していると思うんです。つまり、プレイヤーは主人公ではない。どちらかといえば世界の傍観者に過ぎない。REAL RACING ROOTS というグランプリが主人公で、そこにごく簡単な人間関係と物語があり、それにプレイヤーはレースという形で間接的に係わることでその筋書きを「少しだけ」変える(それが予定調和としても)ことができる。そういう形で、R4の世界というものを地につけることに成功している、と僕は感じます。どうでしょうか。
予感としては、世界をキッチリ構築して、プレイヤーはその世界の一側面に係わることになる、というタイプのゲームストーリーはこれから重要になっていく(というか、増えていく)んじゃないですかね。べつべつのゲームでの世界の共有が増えていくとか。それこそナムコはそういう傾向を感じますよ。
8.28/1999 | ■ トランスミッション |
▼昨日に加えて書き留めておくものです。文脈はGΛΜΙΛΝ’ BBSを参照のこと。
まず、僕の考えはR4グランプリモードのストーリーを過大評価するものではありません。誰がプレイしてもそう思うように、あれは力が入っていたり、注目すべきところがあるようなものではありません。僕もそう思います。規模的にはオマケ程度のものでしょう。
そして、おそらくこちらも誰でもある程度思うところだろうとしますが、R4というゲームはコースの設定や車のデザイン、その他いろいろのデザインにこだわることで、架空のグランプリの世界を創り出している、と思います。実在の車やコースはひとつも登場しませんが、その世界には「R4のリアル」が感じられるところがキモなのでしょう。
ここで僕が思うのは、R4の淡々としたストーリーが、ドラマとしてはお粗末でも、R4の世界を描き出すためには効果的だったんじゃないか、ということです。「REAL RACING ROOTS」というグランプリに新進から古豪までのレーシングチームが会して、自慢の車とレーサーで腕を競う、という「イベントとしてのレース」の側面を、必要最低限のかたちで描いているように、僕には感じられるわけです。この点に関しては、僕の思い入れですから、他の人の感想はそれぞれでしょう。
R4のストーリーは実際にレースをするレーサーは誰か、なんてことを問いませんし、話しかけてくるチームの監督も必要以上にはキャラクターとして扱われません。なぜなら、そのようなことは、RRRの世界においてはさして重要ではないからです。R.T.S.の監督のお嬢さんがMMMレーシングの監督で…なんて裏話は、こういう世界ではよくあることなのでしょう(?)。プレイヤーはレーシングチームの契約レーサーとして全9戦を走ることで、RRRという世界のささやかな裏話に少しだけ立ち会うことができる。R4のストーリーというのは、つまり、そういうものです。
レースゲームのストーリーのあり方として、これ以上のものはない、と、思います。