update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ Jun. / 1999 |
6.1/1999 | ■ そのハードにベストなテトリスが |
▼アリカのPS版テトリス ザ・グランドマスターが発売中止だそうでとても残念なんですけど、そのコメント(『PS版「テトリス ザ・グランドマスター」発売中止』、『追記』)で使われている「テトリス」という単語が自分の知っている「テトリス」とは違うものであるように思えてしかたありません。
6.13/1999 | ■ エキスポ |
更新情報 |
◆external linksにTRACKAGEを追加。てんまどしゃさんに感謝。 |
▼えー、4日ほどつくばの学園都市に滞在して64CPU並列とか、128並列とかでケナゲに(もしくはカワイゲなく)動作するマシンを見たりそのテの発表を聴いたりしてきました。つくばは初めてだったんですが、レイブレーサーが6周設定で反力ハンドル付きだったのが印象に残りました。
▼あと、ステッピングステージをようやく見かけましたよ。なんというか、いろんなところに無理を感じて、やらなくても疲れてしまう印象です。
われわれを疲れさせる「無理」とはたとえばどんなものか。ジャレコサイトのVJ紹介ページの一文を傍線を引きながら引用してみます。
サウンドは20種類以上。中には聞いたことのあるような懐かしのディスコソングがはいっているぞ!!やはり、「無理」があるのではないかと僕は思います。ジャレコに「懐かしい!」「有名!」と言い切るのをためらわせたものは、必ずしもそれが懐かしくなかったり、有名でなかったりするだけではないような気もします。いろんな構図を感じさせる文ですな。
映像、音楽共、結構有名なアーティストが手掛けているぞ! エンディングを見れば納得!!
もちろん、ビートマニアやDDRに「無理」がない、と言っているのではないですよ。
6.18/1999 | ■ ビュー・ポイント |
▼先月、「サイゾー」創刊号で大塚ギチ「考えるビット」を読んだときは、タイトルを拝借した本家であるところの近田春夫「考えるヒット」(週刊文春の連載です)とくらべるにこれは「考える」とは言わんのじゃあないか、と言葉にするとずいぶんな感想しか持たなかったのですけど、今月の連載はナルホドと思って読みました。とはいえやはり「考えるヒット」のような痛快さに欠けるように思えるのは、「考えるヒット」が現在売れている曲を観察してそこから見える法則を抽出する、というダイナミックな「考え」を行っているのにくらべると、「考えるビット」はその形式は同様(現在売れているゲームを取り上げる)ながら作業としてはヒットゲームと筆者の自論を重ねてみてこれは形が違うと言うようないわば静的な「考え」、に見えるからです。「考えるヒット」の痛快さを好む僕としてこれはもうひとつ納得がいきません。なによりそのような作業をこれみよがしに「最新のヒットゲーム」でせねばならぬものなのか、がよくわかりません。
もっとカゲキなことをいうと、「考えるビット」より「考えるヒット」のほうが「ゲームっぽい」と思います。
さて、ナルホドと思ったのはガンゲームの話で、いやガンゲームを楽しくないと思ったことはないのですけど、ポインティングデバイスでゲームをプレイすることの、ギチ氏言うところの「日常性」のようなもの(ぜんぜんちがうような気もしますが)についてちょっとだけ考えているのです。
先日てんまどしゃさんとメールでマンホールについて意見を交換したのですが、そのとき考えたのは「マンホールがコントローラで操作するゲームだったらどうだったのかな」といったことでした。十字キーでカーソルを移動させるゲームだったら、おそらく「その移動させるモノは何だ」というのが問題になるんではないでしょうか。誰もがそれがマウスポインタの単なるヤジルシではいけないと思うはずです。そんなのはクソゲーです。
そして、それをたとえば「人指し指を立てた手」だとかにすると、今度はそれに付随する設定(たとえば、それが誰の手なのか)が必要だと考えるだろうし、そこで行われるアクションもそれに即したものにしないと納得できないんではないかと。ところが、マウスを使うということになると、単なるヤジルシでも、クリックしたときのリアクションがなくても、そのへんがあっさり納得できるように思うんですね、何故か。
想像するに、マンホールがコントローラで操作するゲームだったとしたら、どこかでなにかが破綻したに違いないと思います。その場合、マンホールは「ゲーム」ではあり得なかった(少なくとも、マンホールのような形ではあり得なかった)、のかもしれません。と考えると、マンホールは「ゲーム」としてかなり狡猾に存在していることになります。
それが「日常性」と関係あるかはわかりませんけど、あんがいヘンな話ではないですか。
てんまどしゃさんは「マンホールはゲームというより(ウインドウシステムのような)『環境』ではないか」と言っていました。まあ、そうだろうと思うんですが(ハイパーカードがマンホールの実体だと考えればまちがいなく『環境』でしょう)、でもですね、ここでマンホールが「ゲーム」であったほうが僕としてはガゼン面白くなるので、個人的に「ゲーム」側に置いておこうと思います。
6.21/1999 | ■ ストリーミング |
▼「月刊ASCII」でSCEの人がおもしろいこと言ってます(以下大意)。「PS2でDVD-VIDEOを再生することは技術的に可能ですが、我々としてはそれを観る時間でゲームをやってほしい」「Webブラウザなんかも、それでWebページを見ている間はゲームがまったくプレイできないわけで、そんなソフトウエアには他の何倍もライセンス料を取らなければ割に合わない」とか。
えー、PS2のゲームってのは思わずDVD-VIDEOが観たくなっちゃったりWebページを見に行きたくなっちゃったりするようなもんなんですかー。
6.22/1999 | ■ トランススクリプト |
更新情報 |
◆ここで書いてましたが長くなったので移しました。というわけで記念すべき第10回はToHeart。「#10 トランス・スクリプト」をthink-routineに追加。 |
▼あらゆることに関してこんなことしてるから就職決まらないのかも、と思う日々です。
6.24/1999 | ■ メタ・ノンフィクション |
▼ひとつ根源的な問を思いつきました。
可能なわけない、と思います。
6.25/1999 | ■ ノベルウエア |
▼ワンダースワンのサウンドノベルTERRORSの画面写真に妙なわくわくするものを感じます。少なくとも、今週のファミ通の記事になってたゲームのなかで、いちばんわくわくしました。見た瞬間「見たかったのはこれだ!」と思いましたよ。
わりとなしくずし的に現在の位置にある「サウンドノベル」というゲームが本来目指していた「想像力の刺激」が、今まで見たもののなかで最も強いんじゃないでしょうか。ゲームの画面でシリアスに文章を読む自分が想像できる、というのがちと画期的です。実際には文章とか音とかがどうなるかによるとはいえ、なんというか「勝算」はあるように感じられますが、いかがなものでしょう。
実機(スケルトンとかの)で見たら印象が違いそうなのが気がかりですけど。
ねじ式が出ないかな(ツァイトがもうありません)。
6.27/1999 | ■ ハイパー・テキスト |
▼おそらく、もともとは「コンピュータゲームということにすれば小説にも効果音を付けられて臨場感が増すんではないか」という程度のアイデアだったのだろうと思うのです。それがいつのまにか「情報が少ないから想像力を喚起するのだ」というゲームの「志」にすり替えられた。これは実際にサウンドノベルが面白いか、想像力を刺激するかとは別の問題です。
蓼沼さんも指摘するとおり、「モニタで文章を読むこと」そのものが集中を欠くことだったからなのでしょうね。それは「小説のデラックスバージョン」にはなり得ず、「シェイプアップされた別のかたちのゲーム」と言わざるを得なかった。もちろんそれはそれでかまわなかったわけですが、「想像力を喚起する」ための形式として優れていたか、と考えるとそれはやはりすり替えでなかったと言うわけにはいかないとも思いますし、そのすり替えがその後「リアルサウンド」というさらなる(確信的な)すり替えを生んでしまうことは、記憶にとどめておくべきなのかもしれません。
念のため言っておきますが、もちろんここでは「分岐によってシナリオが変化する」といったことは度外視してます。あ、ノベルゲームって、「ゲームだから」「分岐する」のか、「分岐するから」「ゲームである」のか、どっちだと思いますか?
6.29/1999 | ■ |
▼沢月さんとこの掲示板に書いたことをこちらにもメモ。
FFVIが発売されたころ見聞きした発言のなかにわりと多く、「ゲームがこんなことになってるとは知らなかった!」という驚きの声があったのを覚えています。それこそファミコンスーファミのころでゲームの知識が止まっていた人々にとって、「映画だと言われたらすんなり信じてしまえるような」映像が実は「ゲーム」である、ということは新鮮に驚嘆できることで、まさにそこに興味を持ったのだと思います。つまりそのような人々にとっては、FFVIは「あらかじめ映画であった」、とは言えないでしょうか。
僕なんかのように「ゲーム」が「映画」を指向していく連続的な流れ(その意味では、FFは当初から「映画」を指向していたはずです)をその言葉に託そうという「映画的」と、「どう見ても映画にしか見えない」ものが「映画ではない(つまり『映画』とは呼べない)」ことを説明するために使われる「映画的」と、おおざっぱにこのふたつがあるように思います。