update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ Mar. / 1999 |
3.1/1999 | ■ |
▼せっかくなので「ゲーム性」の話を続けます。
考えるのはあくまでテレビゲームの「ゲーム性」です。たとえばスポーツとかテーブルゲームの「ゲーム性」があるとして、ではテレビゲームの「ゲーム性」がそれにそう形であるかというとそうは思えないのですね。テレビゲームには「(スポーツ/テーブルゲームの)ゲーム性」でない部分が多すぎるし、しかもそれがゲームを「(スポーツ/テーブルゲームの)ゲーム性」とは別の意味で決定したりもする。テレビゲームにおいては何が「ゲーム性」で、何が「ゲーム性」でないのか皆目わからない気がします。
そんなわけで、とりあえずテレビゲームの「ゲーム性」を、いわゆる面白さとか、奥深さとは切り離して置いてみるのはどうかと。面白いとか、奥が深いとかとは別の次元で、我々はテレビゲームに「ゲーム」を感じるのではないかと考えるのです。
なんにしろ現時点での「ゲーム性」はなんとなく口当りのいい言葉にすぎないので、原則的には使わない方がいいと思っています。
3.2/1999 | ■ えっ? マリスミゼルがゲーム評論系同人誌を? |
▼ところで「プレステ2」なんて安易な名称は(仮称としても)ターンエーガンダムと同じくらい許せないと思います。
3.3/1999 | ■ 「プレイステーションの次世代機」(以下「次ステ」) |
▼だから、あんなスゴいものを「プレステ2」とか「プレイステーションの次世代機」とか「ソニーの次のやつ」とか呼ばなきゃいけないのはツラいんだってば。
▼そういえば、先月ワンフェス会場でガメラのDVDソフトの売り子さんが「いまDVDデッキ持ってなくても、DVD搭載のプレステ2が出たら買うでしょう?」という妙な説得をしていましたが、これは「ゲーム機にDVD(ソフト再生機能)が搭載されたら普通買うだろう」と考えられているのか、それとも「プレステ2は普通買うだろう」と考えられているのか。後者だとすると、プレステというものの認識がすでに案外すごいところまで来ているのかもしれない。
3.4/1999 | ■ われわれはゲームで何がしたいか |
▼ACTIVE GAMERSという同人ソフトサークルの作品に萌鉄名松線というソフトがあるのですが(僕もさっき知ったんだけど)、このソフトの紹介を引用したいので引用します。
JR名松線を舞台にしたバーチャルトラベラー乗客シミュレーションソフト。プレイヤーは名松線の乗客となり、好きな駅で降りることができる。列車の走行シーンはムービーで再現、駅で降りると、駅周辺を歩いてまわれるアドベンチャーシーンになる。
他意も何もなく、「プレイヤーは名松線の乗客となり、好きな駅で降りることができる。」という一節が、ただ好きです。なぜだかわかりませんが、「プレイしてみたい」という気がしてきます。乗客になって好きな駅で降りることは何の変哲もないことなのにもかかわらず、です。
以前、やはり同人ビジュアルノベルゲームのマニュアルに「マウスボタンをクリックすると、ストーリーが進行します。」と書いてあるのを読んだときも、同様に僕は妙にドキドキしたのですけど、要するにこれらの「ゲーム」の紹介は、当人たちも気づかぬうちにうっかり何かを言い当ててしまっているように思うのです。
3.8/1999 | ■ |
▼X6800の件
夢見る頃を過ぎてなお夢見がちなオイラはゲームメーカーの採用要項をただじっと見つめたりもしますが、X6800とか言われるとその夢も醒めるってもんです。とか書いてましたら、某筋の暗躍によって修正された模様。
3.12/1999 | ■ |
更新情報 |
◆3/8の記述を修正。 |
▼近未来わしづかみの筐体がステキで気になってたセガのフラッシュビーツを見ましたよ。そうは見えませんがこのゲーム(エレメカ?)は1人プレイモードがあるのです。僕も驚きました。
やってみるとやたら忙しいゲーム。ピンボールをマルチボールでやってる気分。しかもうまくいってるのかわかりにくい。うーん、これは1人プレイはおまけで対戦プレイだとちがうのかな。
「この譜面通りにボタンを押せ」つうゲームでないのはいいんですが、慣れないとリズムっぽくプレイできなそうです。
3.17/1999 | ■ dotimpactはいいました、「何かをゲームにするためならどんな嘘をついてもよいが、ゲームを何かにするためにはどんな嘘もついてはならない」 |
▼「大人のためのゲーム学概論」を買って読みましたよ。それぞれの内容への評価はさまざまですけど、こーゆーものにこうもぴりぴりしてしまう自分にとってゲームって何だよとか考えてしまいますね。
なお最近個人的には、ゲームの外に用意した文脈でゲームを説明しようとすること(より正確にはそれしか説明する方法がないと思いこむこと)には興味がもてぬです。たとえば、「ゲームが人を癒してしまう」ことには興味がありますが、人を癒そうとするゲームには興味がありません。なぜってゲームは別に人を癒さなくたっていいからです。同様に、「ゲームで人を踊らせてしまう」ために用意されるウソは痛快なのですが、それと一般的に言われる「ダンス(とその環境)」とツジツマを合わすためにつかれるウソは不愉快きわまりありません。言うまでもなく、それが「ゲーム」であるならばわざわざ「ダンス」である必要はないからです。
▼ギターフリークスを見かけてプレイしてみましたよ。体感ゲームでいえばエンデューロレーサーあたりかなと思いました。
3.21/1999 | ■ |
更新情報 |
◆think-routineに「1998年のビデオゲーム #3 : BAROQUE(バロック)」を追加。いまさら。 |
▼クレイジータクシーとかスリルドライブとかいい意味でラフなゲームが素敵に楽しいですな。タクシーは16台くらいの通信プレイで客の取り合いとかできたらいいのにな。
▼ところでポケモンスナップってその場でシールが出てくるアーケードゲームだったらよかったと思うのです。
3.23/1999 | ■ ユー・ガッタ・メイル |
更新情報 |
▼9.26/1998に話題にしたAttack In The Darkの作者、伊藤淳平さんからメールをいだだきました。おもしろい話になったので、僕から返したメールも含めて公開します。
はじめまして。伊藤淳平と申します。 ゲーム"Attack In The Dark"の作成者です。 webで自分のゲームを検索にかけたら、 http://www.para.tutics.tut.ac.jp/~kotaro/Dotimpact/crft_9809.html がひっかかったので…。 ぶしつけながら、作成者としての所見を述べさせて頂きます。 >> ゲームそのもののことはサテ置くとして、その、やらされることが >> かなり不思議だと思うのですよ。敵がまったく見えないのにターンとか >> ルールとか守ってコマを動かしてるのはかなり不条理じゃないか? これは、相手の状態が完全に不明な場合を前提にした時ではないでしょうか? 2人の人間が、目隠しをして殴りあいをしているならば、 ターンとかルールとかがあるわけが無いのですが、 このゲームの場合はそのような状況とは少し異なります。 目を閉じていても、敵の位置の不完全な情報が聞こえてくるわけです。 「王手をしているぞ」とか「されているぞ」とか…。 僕はこのゲームは、チェスに見せかけた「スイカ割り」だと考えています。 相手の頭をぶち割ってやろうとして、うろうろしている2名のプレーヤを、 全ての状況を把握している者(スイカ割りなら観衆/Attack〜なら審判)が、 もてあそぶゲームだと思っています。 |
こんにちは伊藤さん。dotimpactの田中です。はじめまして。 伊藤さんの所見には異義ないです。情報が不完全だから予測が当たるとうれしく外れるとくやしいのですね。そして観衆なり審判なりはまた別のレベルでゲームを楽しむことができるというか。僕としてもゲームの納得いかない部分にイチャモンつけるつもりはないです(そう読めたらごめんなさい)。Attack In The Darkは特にていねいにつくってあるし、文句ないです。 あらためて言えばAttack In The Dark をプレイした時のごく個人的な感想は「不思議なゲームだな」といったものでした。伊藤さんも読まれた僕の文章は自分が感じたその不思議さを説明しようとしたものです。たとえば、伊藤さんの言うスイカ割りの例なら、目隠しされてその場でぐるぐるまわされたりして、ほとんど見当もつかないような状況で棒を振り回していると「俺はいったい何をやってるんだ?」という考えがしゃしゃり出てきて、さらに、そう考えたからといって好転しない状況を楽しむことができたりもします(僕だけかもしれませんが)。Attack In The Darkというコンピュータゲームに僕が感じた不思議さは、スイカ割りで目隠しされたプレーヤー(?)が素にもどる自分とせめぎあうときの思考と似ています(同じでしょう)。そしてコンピュータゲームはスイカ割りのように観衆の存在が必ずしも保障されません。スイカ割りを一人でやるバカはいないでしょうけど、Attack In The Darkは一人でプレイすることができます。(おそらく伊藤さんがひっかかったであろう)「不条理」というのは言葉を使ったのはそういうことです。つまりたいていのゲームは「不条理」なのですが、Attack In The Darkはコンピュータゲームのそういう側面を暴いているように僕には思えたのでした。 |
うーん、なるほど。 話は少しはずれますが、ゲームというのは作成者にのみ許される特権があると思います。 それは、敵のアルゴリズムをプログラムレベルで完全に把握していることです。 どんなに難しいシューティングゲームでも、作成者ならば、 敵のパスを知り尽くしているから、ワンコイン・クリアとかは当然のことです。 しかし、こうなると普通のユーザの技術・認識の把握が難しくなりますし、 制作者にとってもゲームを純粋に楽しめません(絶対勝つのですから)。 僕が Attack In The Dark の作成に着手した理由の1つとして、 作成者の僕自身が負ける可能性のあるゲームが作れると思ったからです。 現在公開しているプログラムは弱いですから僕の勝率は9割ぐらいですが、 それでも100%勝てるわけではないので満足しています。 僕はこのゲームで負けると妙に嬉しくなるのですが、 それはこのあたりの機能を確認できるからだと思います。 誤解を恐れずに言えば、僕以外の人間があのゲームを楽しめるはずがないと 思っているくらいです。敵の思考のプログラムの産みの親は僕であり、 自分自身と戦える感覚(しかも負けられる!)は、 他の人には伝えられない喜びがあります。 自分の書いたプログラムですから、未熟なりにも愛着があります。 あのゲームを人対人でやると、そこそこ面白いのですが、 最終的にはコンピュータ対コンピュータでやることが目標です。 (もう、ほとんどできているのですけれどね。) 昔、公園で自分の孫のほうが優れているといって喧嘩している 2人の老人を見たことがありますが、あれをゲームで実現できれば最高です。 自分自身が負けるよりも、自分の可愛がっている者が負ける方が悔しいので。 ゲーム性というものをアプレット上から、プログラミングの方に移行することが できればと思っています。自分の家で(アルゴリズム的に)鍛えたキャラを 友だちのキャラと対戦させることができればいいかなと。 でも強いものが必ず勝つのではつまらないで、 不完全性(偶然性とは微妙に違う)を取り入れたゲームになったのです。 駄文でしたが、参考までに…。 |
ルールや考慮すべき事柄を単純化するかわりに、「わからないこと」もふやすことでバランスをとる、というのがAttack In The Darkだと理解しました。コンセプトとして既に書かれていますが、ルールは単純でありながら優劣が必ずしも決まらない点が優れていると思います。 そう、その「わからないこと」が絶妙なんですね。自分でプレイしてて笑ってしまったんですが、何もわからないから明らかに消極策を取るんですよ。状況がわからない以上それが消極策かどうかすら本当はわからず、考えるだけ無駄なんですけど、それでも自分勝手に思うところの「消極策」を取ろうとする。ここで「俺は一体何をやってるんだ?」「ホントは敵なんか動いてないんじゃないか?」と思ったんです。そしてそうなると今度は自分の「消極策」がどうかしてるとしか思えなくて。 「プレイヤーはゲームに何をやらされているか」というのが個人的なテーマなので、Attack In The Darkには目のウロコを落されたわけです。 |
▼というわけで、なんかこう、微妙にずれているというか、伊藤さんは明らかに作る側からゲームを問題にしているのに対して、僕は自分の感覚からしかゲームを問題にしていないあたりがなかなか興味深いですね。
メール転載を許可してくれた伊藤さんに感謝します。
3.31/1999 | ■ サウンドドライバ |
▼アルファGMOレーベルの初期作品(VIDEO GAME MUSIC/SUPER XEVIOUS/RETURN OF VIDEO GAME MUSIC)が4月に再販されるのだそうで、喜ばしい話ではあるのだけど、もう3年くらい早く実現することはできなかったのか、とかちょっと思いました。いやなんとなくですが。
▼ゲーム音楽といえば、コラムス音楽の秘密が素敵だと思ったでス。