feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン update : 6.22/1999 |
■ここのところ、助手の先生が研究室に持ち込んだToHeart(Win版)をプレイしてみている(無論研究室で)。例によってイマサラなんだけど、でもこういう機会でもないとプレイしないからね。
■つまりはあまり積極的ではなく、まあこういうゲームもあるだろうな、というような感じで淡々とプレイするもので今のところ気分は否定にも肯定にも傾いていない。ただ、何度かプレイするに、このゲームの「シナリオの完結する時点がそれぞれ違う」ということには、ちょっとだけ書くべきことがあるような気がしてきたからここで書いてみるものだ。
■さてここで僕は他愛のない想像を始めるのだけど、「アニメ版ToHeart」というものがもし仮に世の中に存在するとして、たとえばマルチのエピソードとして構成できるのは、1、2話分がせいぜいではないかと思うのだ。シナリオ上主人公がそう何度もマルチの掃除を手伝う必然性はないだろうし、テンポを考えたらむしろ一回の手伝いをいかに印象的に演出するかを考えることが必要なはずだろう。同じことはほかのキャラのシナリオにも言えるから、ゲームでのシナリオを忠実にアニメ化したりすると、やたら間延びした平坦なものになってしまうんではないだろうか。もちろん、すべては想像上の話なのだけど。
■ゲームのシナリオは、いわゆるシナリオらしいエピソードの全順序関係がなくて、半順序というか、どのエピソードがどの順番でどのタイミングで訪れてもいい、というものを理想としてつくられている。結果、「どの順番でどのタイミングで訪れてもいい」ようなエピソードがたくさん生まれるわけで、ドラマとしては平坦なものにならざるを得ないのだろう。もちろん話はかならずクライマックスを迎えるわけだけど、クライマックスを迎える必然性というものは、あらかじめ失われている。エピソードをそれだけ用意できていれば、たとえばマルチが学校に1ヵ月いたって誰も文句を言わないはずだ。いい悪いでなく、ゲームのシナリオとは常にそのようなものなのだろうと思う。
■アニメなり映画なりなら、1日を長く演出することも1ヵ月を短く演出することも可能なんだろうけど、ゲームはそうはいかない。とするとどういうことになるかといえば、「シナリオが持続する期間の長短が、逆説的にシナリオのキャラクターになり得る」ということなんではないか。短いシナリオはその短さにおいて、長いシナリオはその長さにおいて(もしかしたらそれのみにおいて)そのシナリオたり得るのであって、ToHeartのシナリオが、まさにそういうふうになっているんじゃないかと思ったのだった。
■個人的には、ゲームが成立するならその筋書きはどんなに陳腐でも(つまり曲り角でぶつかるのでも超能力少女でも召使いロボットでも)かまわない、と思っているので、ゲームのシナリオのあり方がそれくらい極端でももしかしたらいいのかも、と考えたりしたよ。