update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2001 Nov. |
11.11/2001 | ■ Computergame For Robot For Computergame |
▼別役実のいうところ《文化》とは、「どうやってそれをするか」、という問いについてはその手続きが細をきわめて厳密に定義されるのにもかかわらず、「なぜそうするのか」、という問いにはまったく答えない物事、そのおこない、だとされており(たしか)、別役実が言うんだから間違いはなかろうと僕は思うのですけど、したがってつまりたとえば、エロゲーのCG収集率を100%にするため攻略フローチャートを見ながら決められた場所でセーブファイルを作るとき、われわれは恍惚としてその《文化》の真髄に触れているということになります。…たしか。
さて、もうずいぶん前ではありましたが、講談社現代新書は桝山寛『テレビゲーム文化論』をおもしろく読みました。著者の桝山氏が去年キュレートしてましたテレビゲーム展の続編的な内容の、テレビゲームのこれまでとこれからのお話です。というか言ってしまうと、僕なんかはむしろ『テレビゲーム展』の内容よりもおもしろく読みましたよ。『テレビゲーム展』がおもしろくあったかどうかはまあ個人差あるでしょうけども、もうテレビゲームのことなんか知ってる、という人たちにもオヤと思わせる(『テレビゲーム展』にもうひとつ欠けていた)仕掛けとして、『〜文化論』の「テレビゲームとはつまり、ロボットだ。」という読み解きはなるほど説得力があったように思います。
まあロボットというよりはエージェントというほうが正しいでしょうか(じつは桝山氏もそのように指摘してますけども)。われわれの応対相手となり、われわれのふるまいからそのニーズ(「したいこと」)を解釈し、見合うサーヴィスを提供する。コンピュータゲームのインタラクティヴィティを一種の(ある限定された環境における)知能と考えることは可能だし、アクションゲームからRPG、そして(広義の)シミュレーションゲームにいたるコンピュータゲームの系譜は、コンピュータとの“パートナーシップ”をより強調する方向に進化したものであると(えーとこの辺の話は僕が勝手に噛み砕いたものなので、じっさいの本にはそんなこと書いてないかもしれません)。そんでもって桝山氏が結論にもってくるのは、ロボットとしてのゲームがついにつきあたるのは、つまり「ロボットそのもの」である、ということで、現在から近い未来へ向けて、AIBOをはじめとするエンタテイメントロボットがいわば「身体を持ったテレビゲーム」として遊ばれるだろう、というわけです。なるほどなるほど。
というわけで、今後われわれは未来のエンタテイメントロボットについても考えていかねばならないのでしょう。個人的にちょっと気になるのは、前も気にしてたんですけど、コミュニケーションロボットにおいて、「しゃべる」ものと「しゃべらない」ものは今後も区別されてくんじゃないかなあということで、たとえばAIBOみたいな「しゃべらない」ロボット(なんかソフトでメールを読み上げることができるらしいですが、ちゃんと使ってる人がいるかあやしいような)は、より高度になったとしても「しゃべる」必要はないような気がするのです。逆に、「しゃべる」ロボットというのは、もしかしたら、(イライザがそうだったように)身体をもつ必要がないんじゃないかという気も、僕にはしているのでした。『〜文化論』のなかで桝山氏は
フワフワした質感のピンクのテディベア・ロボットが、二足歩行でプリントアウトしたメールを届けてくれたり、『ひみつ日記』を渡しに来てくれるとしたら、すぐにでも欲しいという人は少なくないのではないだろうか。と書いているんですが、これはちょっと「異議あり!」っていうか、ちょっと考えが図式的に過ぎるのではないかしら(わかりやすくはありますが)。それよりはたとえば、「外出中にAIBO(モモでもいいけど)が携帯電話にメールを打ってくれる」みたいな、間接的なコミュニケーションのほうによりリアリティがあるように、現時点の僕は感じます。どうでしょうか。
と思ってたらTOMYから世界初! 対話型ロボット MeMoNiなんておもちゃが発売されてるそうではないですか。うーん。どうなんでしょ(とりあえず高いなあ)。