update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2000 / Oct. 〜 Dec. |
10.15/2000 | ■ ブレイク・ポイント |
更新情報 |
◆external-linkをアップデイトしました。 |
▼更新のめっきり少ないdotimpactへようこそ。いちど更新のタイミングを逃してしまうと、これは今度の更新はステキなこと書かなきゃ、などと考えがちで、そういうのを考えてるとなおさら更新しなくなる、というよくある病気でした。こういうのは気の持ちようでしょうから今回から気を持ち替えたいものです。
ちょっとこういうのははしたないかもしれませんけど、小林マサルさんの『日々是髑髏船』の、蟄居杏子亭雑記の話題を読んで僕から送ったメールをこちらにも公開しつつ、久々の更新のとっかかりを。
Subject : ギャラクシアンの隠し音楽ですが
dotimpactの田中です。小林さんお久しぶりです。
同様のお便りが各方面からお届きのことかと思いますが。
ギャラクシアンの隠し音楽ですが、というか僕も忘れてますが、
なんとなく記憶からつかみ出せるコマンド候補を順に並べると
i) IIコンのBボタン
ii) IIコンのAボタン
iii) IIコンの右とBボタン
iv) IIコンのAボタンとBボタン
v) IIコンの右とAボタンとBボタン
の、どれか(あるいはどれでもいい)ではななかったかな、と思います。
IIコンは間違いないところです。
あれってリセット一発で成功したことがなかったように思うんで、若干根気強く、
ということで。
「computer game graphics」なんて本があるんですね、初耳です。
魅力的なゲーム画面の話についてはまったく同感ですね、やっぱり。
先日友人とMAMEのROMを年代順に並べて古いほうから順に眺めていく(気になるタイトルをプレイしてみる)というヒマなことをしてたんですけど、いわゆる「ナムコの黄金期」が、その後の(少なくとも日本における)コンピュータゲームのスタイルを思いきり決定してしまったんだなあ、もしかしたら別の進化の道もあったのかもなあ、というような感想を持ちました。
あとそれと「ギャラクシアン(FC版)」ですけど、僕も数年前あらためてプレイしたらやめられなくなったことがあります。ショットをはずさず、しかも敵に当てた瞬間に次のショットを撃つ、というのに集中しはじめるとものすごく熱狂できるんですな。
すいません長々と。
それでは、ごきげんよろしく。
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dotimpact@nifty.com
田中孝太郎
その先日いっしょにヒマなことをしてたのがMCDさんだったりするのはともかく、これはなかなかおもしろい遊びでしたよ。年代がおんなじゲームはアルファベチカルに並んでしまうんで、もちろん正確に順番に見ていくことはできないんですけど、単なる年表ではなくてそれらゲームを「見くらべ(遊びくらべ)」ていくと、コンピュータゲームの発達というのが、なんというかかなり幾筋も見えるような気がしたのでした。ROMを集めてらっしゃる方は一度やってみると吉です(もうやってるかもしれませんけど)。
関係ないですが、MCDさんはMAMEではTapperという外国ゲーム(ビールを求めてカウンターを迫ってくる客に、ひたすらバーテン(プレイヤー)がビールをサーバーからジョッキに注いで客に投げ渡し、空ジョッキを拾うというゲーム。バーテンがビールを投げたとき、客が画面上に登場するチアリーダーに目を奪われているとジョッキが割れてミスになります(←バカな設定)) が気に入っているそうです。
あ、それから前回(って20日も前ですが)AMショーで「これは!」と思いつつ書きそびれたアリカのTETRIS T.A.GRANDMASTERのエンディングシーケンスの話があったんでした。このゲームの一人プレイモードを999レベル(ブロックを一つ落とすと1レベルという計算ですね)までプレイするとエンディングがありまして、グランドマスターの人のプレイを後ろから眺めることで僕はそのエンディングを目撃したんですけども、そのエンディング(というのかなー)が、プレイ中の画面のバックにスタッフロールが流れるというヒジョーにカッコヨイものだったのでした。感動的なのです。
グランドマスターを目指さねば、と強く志した僕です。
10.23/2000 | ■ この野原いっぱいの… |
▼気を抜くとすぐ間が空いてしまいますな。やれやれ。
さて、ここのところのdotimpact君はといえば、果てしなく青い、この空の下で…。というゲームにウツツを抜かしておったのでした。エロゲエです。たいへんすばらしい絵柄となかなか小気味よい文章、というので友人らの話題(及び萌え)となってたゲームを自分もやってみた、という次第で、このてのゲームはあんまりやらない僕でもかなり楽しくプレイしました。
僕が青空。(と略すべきなのでしょう)というゲームでとくに気に入ったのは、実は何のことはない「章立ての構成」なのです。青空。は、マウスをクリックするとストーリーが進展するノベルタイプのゲームで、そのお話は「始業式」「春」「夏」「秋」「冬」というタームで文節されています。もちろんこういうゲームですから、お話の契機がおとずれると選択肢でプレイヤーの意思決定が促されて、それによってその後のお話の展開が変わってくるわけですけれども、さらにこの青空。では、たとえば「春」の展開によって、「夏」のシナリオそのものが丸ごと入れ替えられてしまうわけです。まあ当然といえば当然なんですけれでも、僕は「これか!」と思いました。つまり、こういういわゆるノベルゲームというようなゲームで「プレイヤーとしての自分がしたいこと」というのが、「これか!」と思えたのです。
説明が必要かと思いますが、僕はこういう物語をたどる、ノベルタイプのゲームでの、「選択肢」というやつが、よくわからないなと前からずっと思っているのです。正確に言うと、ノベルゲームの選択肢で「プレイヤーとしての自分が何がしたいのか」が、よくわからない。もちろんそこでその選択肢を慎重に決定することで、よってその後の展開が変わったり、話し相手の好感を得たりすることができるわけですけれでも、どーも僕は、プレイヤーとしての僕は、そういうことがしたいんじゃないような気がするんです。この気分はthink-routine #13でも触れてみていますけれども、たとえばときメモやノベルゲームみたいなゲームにプレイヤーとしての僕は、何らかのかたちで「必然的に」参加したいと考えるのであって、その場の機転で難局を切り抜けたり、女の子の好感度を+3したいわけじゃないのです(こういう感覚がどのくらい通底するのかについて、僕にはまったくわからないのですけど)。だから、ノベルゲームのようなゲームでは、「選択肢」みたいなまったく直接的な操作によってしか変わっていかない世界を、どうやって「必然的に」感じさせるか、錯覚させるか、ということを考えていくとおもしろいんじゃないかと、僕は考えています。
さてここで青空。に話をもどすわけですが、青空。の章立てがゲームの表現として優れているなと僕が思うのは、たとえばあるプレイで「夏」のシナリオが決定されることは、実際には間違いなく「春」のシナリオでのプレイヤーの選択によるものなんですけど、これが案外「そうでもないように思える」ところなんですね。一度「春」のシナリオに幕が引かれ、季節が変わり「夏」…となるとき、プレイヤーは自分の行った「選択」を、かなり忘れることができる。それによって、実際には「春」の時点でプレイヤーが選択しているに過ぎない「夏」のシナリオに、なにがしかの「必然性」を感じとることができる。こういったメカニズムが、ここにはあるんではないかと僕は思っています。そしてそれが、「プレイヤーとしての僕がしたいこと」なのだろうと。
11.4/2000 | ■ フラット・スピニング・ループ |
▼今週のファミ通の「ソフトウェアインプレッション」には、東浩紀さんがトワイライトシンドローム 〜再会〜をレビューしていまして、やや意表を衝かれました。
そういえば以前(というか渋谷パルコギャラリーの「スーパーフラット展」トークショーの後なのですが)、東さんに(本にサインをもらいがてら)「スーパーフラット(にしても何にしてもそうなんですけど)って、ゲームへの言及が弱いように思うんですけど」と訊いてみたことがあります。
東さんは明快に「それは、そういうことを書く人がいないというだけの話です。かといって、影響が明らかな以上、取り上げないわけにはいかない。特にゲームというのは、元旦の午後からゲームショップが開いていて、ごく普通の人たちがお年玉でゲームを買ったりする風景が当然になっているわけでしょう。そういう意味でも重要なんですが、それはそのあたりに詳しい人が、独自にやったらいいんじゃないでしょうか」というようなこと(印象で再現してるのでかなり違うと思いますが)をおっしゃってました。「元旦の午後から〜」というのは聞いて「?」と思ったのですが、「スーパーフラット」というのは単なる図像概念ではなくて、意識に関わる問題である(と少なくとも東さんは考えている)ということでしょう。
そのあと村上隆さんにも(サインをもらいがてら)「村上さんはゲームはやらないんですか?」などと聞いてみましたら、「いやー、ゲームは僕はダメなんですよねー。バーチャファイターあたりで止まってるんです。だからゼルダとかも、わかんないんですよね」(やっぱり印象の再現なので、不正確です)とおっしゃってましたよ。「ゼルダとかも」のあたりに、村上隆らしさを感じたり感じなかったりしました。
どうでしょう、村上さんに怒首領蜂あたりの弾幕シューティングを見せたりすると、案外嬉々として日本美術のコンテクストに乗っけてしまいそうな気もします。
11.13/2000 | ■ 本読み |
更新情報 |
◆どーだかよくわかんない読み物になりましたが、think-routineに「#18 キャラクタリスティック・ビヘイビア」を追加。ドゾ。 |
▼例によってですがヨソの掲示板S.MA.P.BBSに書いたのをこちらにも転載しておきます。
こんにちは、はじめまして。dotimpactと申します。
リンクされてはじめてこちらを知った次第なんですが、理解されないのはやっぱり残念なのでちょこっとお話させてください。「今一つ理解」してもらえるのかとても不安ですけど。「ほとんどなにもしてない」ようなプレイが続く本読みタイプのゲームにおいて、ふっと「なにかした」ような気分になれればそれはゲームとして成功だろうと僕は思っています。そのような意味で、僕は『青空。』はゲームだと思ったし、またいかに構成が稚拙であろうと章の区切りが変であろうとあくまで支持したいんですね。あるいは、「ヘタ」とか「ヘン」ていうのは趣味の問題ですから。僕にだって譲れないものはあります。
さて僕が『青空。』というゲームで好きでいいなと思うのは、季節の変わり目での展開というのをプレイヤーとしての自分が「選んでいない」、ように感じられるというとこなんです。その意味で『ダライアス』でプレイヤーがすることとはかなり違うかなと僕は感じます。
ちょっと変な話ですが、たとえば「ここから先の展開はあなたが決めてください」と言われて自分がなにかを「決定」したとしても、僕はあんまり「なにかした」気分にはなれないんです。それよりも、「自分は何もしていないはずなのに」なにかが変わってしまったとしたら、そのとき僕は自分が「なにかした」気分になるだろうと思います。
『青空。』で春をプレイした後夏をはじめる時に僕が感じる気分というのは、つまりそういうことじゃないかと僕は思っています。「この健足会でのちょっとした好奇心からの選択が、俺にこんな夏をもたらすなんて、考えてもいなかった。」なんてモノローグが僕には思い浮かびます。こういう感じでプレイできるゲームって、僕はあんまり知りません。
ぜんぜんちょこっとじゃなくなってしまいましたけど、伝わるといいなと思います。
11.28/2000 | ■ ドットインパクト、ビットジェネレーションを見にいく |
▼茨城県は水戸市の水戸芸術館にて開催されている『テレビゲーム展 BIT GENERATION 2000』を見てきました。
世界初の商用テレビゲームコンピュータスペース(ナッチング / 1971)の登場をはじめ、社会の情報化における特異年であった1971年から現在(2001年!)までの30年を、われわれの社会、われわれの生活のあらゆるものがすげえ勢いで「アトム(物質)」から「ビット(情報)」へと転換されていった世代、「ビット・ジェネレーション」と考え、かつそのジェネレーションの象徴としての「テレビゲームの歴史」を見直すことで、われわれの社会がどのようにビットエンコードされたかを確かめることができるはずだ、という、まあそういった企画展示です。とはいえ、このあたりはパンフレットの引き写しでありまして、僕と友人ら2人が連れ立って水戸まで足を運んだのはテーマに共感したとか、展示になにかしら期待したとかいうよりは、「幼なじみが個展を開いたというので駆けつけた」とか、そういった感じだったのでした。
そんなわけで、テレビゲームの進化史だとか社会現象としてのテレビゲーム史だとかの展示そのものにはあいまいな印象しか憶えず、あらためてこういうふうにプレゼンテーションされるのも興味深いといえば興味深いし、まあ知ってるものが並んでるだけで退屈だと言えば退屈でもありました(とはいえ3人もいれば展示のネタをイジってればそれなりに楽しくもあるのですが。友人のACI君は「壁に書かれてたメッセージのネタ元の答え合わせがしたかった」と言っておりました)。そんななか、ほぼ唯一「テレビゲーム展」ならでは、と言える展示が企画のメインテーマを名に冠した「アトムからビットへ」というインスタレーションで、これは2台の卓球台が用意され、片方の台では実物のラケットとピンポン球のセットによって「アトムの」ピンポンを表現し、そしてもう一方の台にはポン(PONG)(アタリ / 1972)のプレイ画面を投影して「ビットの」ピンポンを表現しているという、こう書いてみると大変鼻白むもの(ちなみにもうひとつ、床に設置した迷路(だったのか、よくわかりませんでしたが)の上にパックマン(ナムコ / 1980)の画面を投影するというという作品もありました)ではあるのですけども、これが案外救われていたのは、水平面のスクリーンに上から投影されるという変わった方式で見るポンやパックマンの映像には、モニタで見るのとは違うなにか不思議な迫力があったところで、それはつまりそこで「ビットである」として提示されたゲーム映像に、むしろモノ(=アトム)としての魅力を僕は感じてしまったのであり、これは趣旨からすると皮肉なのかもしれませんが、ともかくゲームの映像を見る感覚としてちょっと新鮮であったなと思いました。これがプレイアブルだとよかったんですけど。
ところで展示をひとまわりして思ったことのなかに(上のようにまったく趣旨を解さない僕が構成に文句を言うというのもおこがましいのですけど)、テレビゲームの「音」についてまったく触れていないなということがありまして、というのは、テレビゲームとはその当初から「映像で遊ぶ」ものであると同時に「(電子)音で遊ぶ」ものであったと言っても過言ではないはずで、それはたとえばテレビゲームが「キュンキュン(ピュンピュン)」とか「ピコピコ」とかの擬声語によってそれと指されていたことからも確かめられそうな気がしますし、その最先端にいわゆる「音ゲー」があるのだ、と結論することも可能な気がします。あるいはたとえばマリオシリーズのコインを取る音(いわゆる“コイーン”)ひとつ取り上げても、映像が高度にできてもその「音」は変えられないという事態にあるわけですし、さらにいえばその「音」が任天堂のCIサウンド(というのか、CMでNintendo.のロゴが出るときに鳴っていましたね、今は違いますが)であったりしたわけで、こういうのを「テレビゲーム展」が忘れているとしたら、それはとにかくもったいないんではないかと思います。もちろん詳しくはじめれば「もうひとつのテレビゲーム展」を企画する必要があるから、あえて触れていないのかもしれませんけれども。
さて会場にはゲームソフトの歴史ということで各年代の名作がプレイできるようになっていましたが、そこにあったゼビウスの画面が、なんというのか、色が濃いというかぎらぎらした昔のゲーセンぽい映像になっていてよかったですよ。トーロイドとかバキュラとかが回転するとき一瞬だけキラリと光るように見えたり、あと海の青がすごくまぶしかったりするゼビウスを久しぶりに見ました。あとまぶしいといえば、アステロイドの筐体が調整中になっててプレイできなかったのがちと残念でした。
ちなみに駅までの通り道にあった水戸のゲームファンタジアに寄りましたら、「常設展」という感じでナムコクラシックコレクションとかコナミアーケードコレクションとかが置いてあったのが関係ないんだろうけどおかしかったです。
12.19/2000 | ■ アン・アドベンチャー・オブ・インバイタブル・チャンス |
更新情報 |
◆think-routineに「#19 チャンス・オペレーション」を追加。ROOMMANIA #203の話ですので、よしなに。 |
そういえば、こないだPS2の発表会で発表された、リモココロンというソフトは、わりとROOMMANIA #203と同じ階の住人という感じのゲームみたいですね。町の住人がそれぞれ抱える悩みを、非接触的に解決してあげるといった内容とのこと。
どうでもいいんですけどリモココロンというのは「リモコン+ココロ」という意味の造語だろうと思いますけど、このタイトルに僕がどうも連想してしまうのはボンバーマンのアイテム「リモコン」のアイコンなのでした。
いちおう説明すると、それを取ると通常一定時間で爆発する爆弾を、ボタンのタイミングにできるというすごく便利なアイテムで、アイコンは「ハートマークの中に爆弾」という図案です。
12.24/2000 | ■ イエロー・ジャイアント |
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◆毎年おおげさなタイトルの棚卸企画ですが、think-routineに「#20 コンピュータゲームの2000年について 『#1 巨人のドシン1』」を追加(どうでもいいですが20番を迎えたんでタイトルのネーミングスキームを変えてみました)。 |
12.27/2000 | ■ テイク・フリー |
更新情報 |
◆いわゆる「初参加です!」というやつですけど、今度のコミックマーケットにて友人連のサークル「快速化学」で紙切れを出品します。 『コンピュータ・シミュレーション・ゲームの地平 simulated playground』 テキスト/レイアウト dotimpact イラスト 沢村みつびし A4両面2P 無料配布 2000年12月29日(金)西地区"ら"14b とはいえ内容はthink-routineのテキストを4本流し込んだだけなので、あんまりありがたみないかもしれません。まあいらっしゃる方は拾ってってもらえるとうれしいです。ちなみに当日はサークル卓ちかくにいると思いますので、声などかけていただけるとやはりうれしいです。 |
12.29/2000 | ■ イベント・ドリブン |
▼もしかして「dpi」をご覧になってのお方、いらっしゃいましたらいらっしゃいませ。こちらがdotimpactです。
▼本日『コミックマーケット59』にてdotimpactの試供品「dpi」というのを配ってきました。たんなる無料配布の紙切れにオオゲサなポスターが立ててあったりしていささか初参加のリキミが見られる出品でありましたが、多くのかたに手にとってもらえてなによりでした。
なにしろ、つくったフリーペーパーというのはA4の両面に6ポ31文字51行4段の文章がビッッチリ打ってある手軽とはいいがたいシロモノであり(いや、ここの書きものを4本載っけるだけでこんなになるとは、僕も思っていなかったですけど)、友人らの間では「こんだけ文字が詰まってるとちょっとしたデンパだよね」などといってハハハと笑っていたのですが、その「dpi」を手にとったお客様、まさにこのように一言。
そういえばデンパでした。お客様はただしい。目の生ウロコが剥がされたというか、これで元をとれたと思えるくらい新鮮でうれしい意見でした。
今回「シミュレーション」というお題で再掲載したのがミスタードリラー、クレイジータクシー、ゼルダの伝説 ムジュラの仮面、ルーマニア #203の4本という、まあ言われてみればどこがシミュレーションなのかさっぱりわからないセレクトだったのでした。そういえば手にとって眺めて小首をかしげている人が多かったような気がしなくも。
それから会場で何人かのかたに声をかけていただけたのがうれしかったです。ごめんなさい、ふつうの感想で。でもやっぱり。