feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン release : 9.12/2000|update : 9.15/2000 |
■「上達するゲーム」ではなく、「慣れるゲーム」なのだ、というのは僕としてはなかなかの思いつきだと勝手に思っていたんだけど、実際にはむしろ話をややこしくするだけだったのかもしれない。そんなわけで、ミスタードリラーをもう一度ゼロメートルからリトライすることにしよう。たぶん、いや間違いなく前回とは別の掘りかたをすることになると思うけど、目指すのは同じ地下1000mなのだとご理解いただきたく思うよ。ではあらためて。
■ポップな色、チャーミングなキャラクター、そしてシンプルなルール(に似合わぬ意外な手強さ)。誰もがそう思うようにミスタードリラーはいわゆる「『ナムコ黄金期』を彷彿とさせる」デザインがなされたビデオゲームだ。このゲームの人気がこのちょっとご無沙汰していた雰囲気に大きく依っているのは間違いないところで、しかもその「ナムコ黄金期」の輝かしいビデオゲームたちを知っていればこそ、ともすればミスタードリラーをそれらのゲームと重ねてしまうんではないだろうか。でも、ここに関して言えば僕は、ちょっと違う意見を持っているのだった。つまり、その意匠がかつてのそれを踏襲しているとしてもミスタードリラーというのは確実に今のゲームだということ。逆にいえば、ミスタードリラーというのは、「黄金期」にでも作れそうでいて実はありえないタイプのゲームなのだろうと、僕は思っている。
■「黄金期」のゲームと今のゲームで大きく違うのは、広い意味での「シミュレーション」という考えかたの有無、なんではないかなというのが僕の考えだ。すでにこのサイトで何度か言おうとしているところだけど、ここのところのゲームには、静的なルールとそれに対応する確実なアクション、という昔からそれがゲームだと言われてきたものではつかみきれないところがあって、それはもしかしたら、もう少し先のコンピュータゲームというものが半キャラくらい見えている、ということなのかもしれない、と僕は思っている。そしてその、いわゆるゲームでは「つかみきれないところ」こそが、「シミュレーション」というものの考えかたのことであるはずだ。
■そう、つまりミスタードリラーというゲームをシンプルなルールのパズルアクションではなくて、ある特殊な環境のシミュレータだと考えると、「黄金期」のゲームとの違いを説明できると思う。重力が常に真下に働き、同じ色のブロックがくっつき、同色ブロックが4つ以上くっついた場合は消滅する、という「環境」のシミュレータ。そのような「環境」でプレイヤーがブロックを掘ったり避けたりすることがミスタードリラーという「ゲーム」になっているわけだ。ここでは、そのような「環境」とそのような「ゲーム」とは原理的には一切関係がない。「環境」はあくまで独自にその環境のルールに従うのであり、「ゲーム」もまた独自にゲームのルールにおいて運営される。実際にはほとんどの場合、それらは単にひとつのものとして見えているのだけど、ごくたまに、その「環境」と「ゲーム」が別々のものであることを、われわれに強烈に意識させる瞬間がある。ミスタードリラーで、自分の操作するススム君がすでにブロックに押しつぶされてミスしているにもかかわらず、ブロックの連鎖消滅がなかなか収束せずプレイが再開しない、という状況に出くわしたことはないだろうか? つまりそこで、ミスタードリラーと呼ばれるものは、実際にはわれわれの「ゲーム」など少しも慮っていないのである。
■念を押していうと、もちろんディグダグの岩も地球の中心に向かって落ちるけど、それはモンスターを(時にはプレイヤーを)つぶすために恣意的にそうであるに過ぎない。ディグダグというゲームは、あくまでプレイヤーがプレイするための「ゲーム」なわけだ(なんとまあおあつらえむけなことに、ディグダグというゲームにはそれを裏付ける証拠すらある。このゲームはプレイヤーが操作をしないかぎり、BGMすら止まっているんである!)。さらにさらに加えて言うのだけど、僕はミスタードリラーというゲームが、実はそのような深い考えの元に作られているのだぜ、なんても言うつもりはないよ。そうではなくて、作る側もプレイする側も、すでにとくべつに意識しなくてもそのような「環境」の介在を受け入れることができるのだ、ということ。かつてのゲームのことも忘れていない「今」のゲームがあるということ。ナムコとかわれわれとか人類とかは、確実に「黄金期」よりも深いところへと掘り進みつつあるということ。そんなふうに考えると気分がよいんじゃないだろうか。