feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン release : 11.13/2000|update : 11.13/2000 |
■いわゆる「キャラゲー」といういいかたを、僕はここのところあんまり口にしないし耳にもしないように思っているのだけれど、これは僕の思い過ごしばかりでもないような気がする。もちろん「キャラゲー」と呼べるゲームがなくなったわけじゃないのだし、むしろそれに当たるゲームは多くなってきていると思えるし、また「キャラゲー」がかつての「キャラゲー」らしくなくなった、というような事情があるわけでもなく、やはりむしろ、「キャラゲー」はより「キャラゲー」らしくなっているという傾向にあると、僕は考える。しかし、にもかかわらず一方でわれわれは、そういうものをあえて「キャラゲー」と呼ぶ必要を感じなくなってきているのかもしれない。今回はそんなことを考え始めてみるのだ。
■まずはあらためて「キャラゲー」というのは何だったか思い出してみよう。主に漫画やアニメを、あるいはそれらを模した設定を原作として、そのような作品の世界や「キャラクター」をモチーフとして作られたゲームを指す、なんて通りいっぺんの定義が思い浮かぶわけだけれども、もちろんこれはぜんぜん正確じゃない。今ならまだ多くの人が知っているはずだけれども、かつて「キャラゲー」といういいかたは、単に「出来の悪い、注目に値しないゲームである」、ということを指していた言葉で、いわゆる「クソゲー」とほぼ同じ意味で通用していた侮蔑語だったはずだ。じっさい間違いなく「漫画/アニメのキャラが出るゲーム」のほとんどが安易に作られていたり、プレイに堪えないものだったという暗黒時代があったことを、われわれは知っている。
■ところが、その後「キャラゲー」というものが、そういった軽蔑の対象とは別のステージを獲得していく過程というものも、やはりわれわれは知っているはずだ。僕はそれはスーファミのウルトラマンだとか、PCエンジンCDROM2のコブラのころからではなかったかと記憶するのだけど、「出来のいい(熱心なファンを満足させる、あるいはその作品に特別な思い入れがなかったとしても十分楽しめる)『キャラゲー』」というものが、「ある種の驚きをもって」ゲーム雑誌なんかで紹介されるようになり、そのような「出来のいい『キャラゲー』」が徐々に増え、さらには、「キャラゲー」はそうであることが期待されるようになるにいたった。つまりそれまではそれこそ「漫画/アニメのキャラが出る」「ゲーム」、いわゆるキャラクター商品としてしか作られていなかった「キャラゲー」というものが、単に版権を借りただけではなく、しかもいわゆる「ゲーム」とは別の、ふさわしいスタイルを確立していく、という流れが確実にあったと思うのだ。それは「キャラゲー」が狙う購入層を、クリスマスに店頭で親にねだって買ってもらうような世代から、前情報からそれを選択して自分の金で購入するような世代へとシフトさせた、といった経緯があるのかもしれないし、またゲーム機のハードスペックの向上(とくには「キャラクター」をちゃんとそれらしく描画できるグラフィック能力とPCM音源)という面とも無縁ではなかったとは思うんだけど。
■さてここまで思い出したところで、ようやく「キャラゲー」とは何か、ということが考えられると思う。もちろんキャラクター商品のほうではなくて、われわれがプレイしたいと考える、ある種の「スタイル」を確立しているほうだ。例によって僕の考えを先に述べてしまうことになるけど、たぶん、「キャラゲー」とは、そのゲームにおいてプレイヤーが「何ができるか」よりも、「どうできるか」を問題にするゲームのことだ。こういうふうに考えると、われわれが「キャラゲー」というものに望んでいるものを説明できると思うし、ひいては今現在「キャラゲー」といういいかたをあんまり必要としなくなっていることも、説明できてしまうだろう。
■つまり、「キャラゲー」をプレイするわれわれは、それ以上でもそれ以下でもないかたちで、「原作みたいに」プレイしたいと考えるのであり、またその限りにおいては、「そこでどんなゲームが行われてもかまわない」のだろうと、僕は考える。たとえば原作がアクション巨編であるからといってそれらしく作られたアクションゲームよりも、何の必然性もないキーボードタイピングゲームのほうが「北斗の拳っぽい!」と考えるのが「キャラゲー」の精神なんじゃないだろうか。そしてこの精神を推し進めたところに「キャラゲー」のスタイルがある。「キャラゲー」においては、キャラクターの、ひいてはゲームの「それらしさ」が、何よりも重視されなければならない。
■そしてここまでくれば言ってしまってよいと思うけど、つまり、いまやこのような意味で「キャラゲー」でないゲームが極端に減ってしまったために、おそらくそれを「キャラゲー」とあえて口にする必要はなくなっている、というのが現状なんではないかと思うんだけど、どうだろうか。