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シ ン ク ル ー チ ン
release : 11.11/1999|update : 11.11/1999



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#13 インダイレクト・コマンド

featuring 「ときめきメモリアル」(KONAMI / PC-Engine, Playstation, Saturn, SuperFamicom, GameBoy, Win)

ときめきメモリアルを初めてプレイした時、といってもそれは僕の場合サターン版のそれが中古で1000円を切ってからのことだったのだけど、ともかくそのときメモを初めてプレイした時に、なんだかほんのちょっとした、でもしっかりした違和感を持って、急に僕は自分がなにをしてるのかよくわかんなくなったりした覚えがある。その違和感というのは、一般にときメモを嫌うときに言われるようなことではなくて、具体的には「なんか、間接的だな」という印象のことだった。ときめきメモリアルは僕には、妙に「間接的」なゲームに思えたのだった。

■たとえば、シミュレーションゲームというのは、大きくは天下統一だとか敵国殲滅だとかの「ゲームの目的」から、とりあえず目の前の敵を倒すことまで、大小さまざまなミッションを遂行するために、プレイヤーはその局面でのコマンド(ある操作、あるアクション)を決定する、ことになっている。ここでこのコマンドの決定に関して、プレイヤーの視点を離れて言いかたを変えるなら、そのゲームのその局面で、どのコマンドを選択すべきかということについて、実のところプレイヤーには常に「わかっている」のではないか。もちろんそのコマンドが成功するか失敗するかは事前にわからないかもしれないのだけど、そういう場合も、そのコマンドを選択する時点でこのコマンドは「成功しないかもしれない」ことがプレイヤーには「わかっている」。そのコマンドを選ぶことでその後の展開がどうなるのか「わかった」上で、プレイヤーはそのコマンドを選択することができる。このようなコマンドのありかたは、その選択そのものによってプレイヤーがプレイヤーの「したいこと」を行える、あるいは行えると錯覚させうるという意味で「直接的」である、と言えると思う。そして、かつてまでの「ゲーム」というのは常にそのように「直接的」なものだったはずで、そうではないものとして、たとえばときめきメモリアルのような「間接的」なゲームが登場してきたんではないか、というのがここでの僕の考えなのだけど。

ときめきメモリアルというゲームで僕は、ある局面でプレイヤーとしてどのコマンドを選択すべきなのか、といったことが、まったく「わからない」。もちろん、勉強なりスポーツなり社交なりのコマンドを選択すれば、しかるべきパラメータが上下するんであり、そのパラメータによってしかるべききらめき高校の女子たちの態度やら顔の赤らめかたが変わるんであり、かといって無謀な行動は別パラメータの低下を招くんであり、プレイヤーが行うのはそのマネジメントである。それは「わかって」いる。でも、断じて言うけど、それはときめきメモリアルというゲームで僕が「したいこと」では、まったくない。

■誤解を恐れずに言えば(でもできれば誤解されたくないと思うのだけれど)、プレイヤーとしての僕がときめきメモリアルというゲームで「したいこと」は、「なんとなく」選んだ部活でマネージャーの虹野沙希と仲良くなることだったり、「偶然」廊下でぶつかった館林見晴と知り合うことだったり、藤崎詩織に告白「される」ことだったりするはずで、それは「直接的」なコマンド選択によって行われるパラメータマネジメントや、その必然として特定のキャラクターの反応を得ることとは別のことであり、またそうである以上プレイヤーとしての僕はある局面でどのコマンドを選択すればいいのか、まったく「わからな」くなる。プレイヤーとしての僕は常によく「わからない」ままコマンドを選び、そのコマンドによる次の展開を「期待」したり、「信じ」たり、といったことをするのだ。ときめきメモリアルは、コマンドとプレイヤーの「したいこと」が乖離している、という意味で「間接的」なゲームだと、僕は考える。

■「プレイヤーはゲームにおいて意志決定を行う」というのは、少なくとも現在では錯覚であることの方が多い、というのが最近の僕の考えかただ。また、その「間接性」において、いわゆる「ギャルゲー」とか「サウンドノベル」が昔の「アドベンチャーゲーム」とは違うゲームである、とも言えると思う。何かを「決める」喜びだけでなくて、何かが「決まってしまう」喜びも、われわれは「ゲーム」として楽しんでいるのではないかな。












注釈とか余談
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