update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2001 Feb. |
2.14/2001 | ■ サウンド・テスト |
▼ども。
▼先だっての月曜日、出かけた折に突如「そういえばたしかKONAMI GAME MUSIC Vol.3っていうかいわゆる『コナミック・ゲーム・フリークス』の復刻版が発売されてるんではなかったか」と思いいたって、CD屋をハシゴして回ってしまったのですが、結局まだ発売になっておらんのですね、残念(発売日未定だそうで、こちらで再販要望署名(?)などやってます)。
えー、昔話になりますが、僕の場合その『コナミック・ゲーム・フリークス KONAMI GAME MUSIC Vol.3』ははじめて購入したゲームミュージックのレコード(買ったのはカセット盤でした)だったのですけど、このアルバムの収録されている沙羅曼蛇(R)の音源を聴いたときの衝撃というのが、僕が音楽を聴くことのカーネルになっているのだと、僕はいまだに考えます。ご存知の通り沙羅曼蛇(R)はゲーム基盤のサウンドシステムにステレオチャンネルが使用され始めた初期の作品であり、そのゲームミュージックもそのステレオチャンネルをやりすぎなくらいまで使いまくったものになっていて、当時この音楽をサンヨーのヘッドホンステレオで聴いた(そして聴きつづけた)僕は「両耳で音楽を聴く」ことの快楽に打ちのめされたのでありました。それ以来僕にとって音楽というのは厳密に言うと「インナーヘッドホンを両耳にはめて聴くもの」であり、「両耳で別の音を聴くこと」なのであります。
そんなわけで僕はバイノーラル録音とかホロフォニクスとかQサウンドとかRSS(だっけ)とかの立体音響系の録音技術も大好きなのでした。スーファミが発表されたころだったと思いますが、任天堂がQサウンド(カプコンのCPシステム2に採用されてると思った立体音響技術)の技術提供を受けるとかいうニュースをファミコン必勝本がわりと大きいスクープとして扱ってまして、その記事で紹介されてた八幡書店のホロフォニクス(ヒューゴ・ズッカレリ博士が発明したんだと思った立体音響技術)のカセットブックに興味を持って、当時としてはかなり高いシロモノであるそれを購入して聴いて喜んでいた僕です。ああいう移動感のある音響で、音がちょうど頭の真後ろのあたりを通る感覚はなんというか、「ゴーストラインにノイズが生じる」みたいな妙な感覚があってすげえ好きなのです。
ところであんまり言われてないように思うので言ってしまいますが、GMOレーベル初期シリーズの魅力というのはその内容もさることながら、ジャケットの秀逸さにもあるだろうというのが僕の意見です。ゲームの画面写真を素材としてデザインされた端正なデザインワークが僕はとても好きで、その後『SEGA GAME MUSIC Vol.3』みたいにジャケットがイメージイラスト中心になっていったのが割と残念だったのでした。
1.27/2001 | ■ ミュージック・ノン・ストップ |
更新情報 |
◆トップページをちょっと変えました。 |
▼ちなみに元旦よりトップページを飾ってました「Happy new iteration.」というキャッチフレーズはただ"iteration"という単語が使ってみたかったといういい加減な動機によるものでありました。"iteration"というのは同じように何度でも繰り返されることの、その一回分といった意味で(僕の理解ですからあんまりあてにしないほうがいいですが)、なんというかとっても「ゲームっぽい」ことを説明しているように思えて僕は好きな単語です。われわれはしばしば同じことを繰り返すのではありますが、しかし間違いなくそのいっかいづつを「プレイ」しているのであります。
▼どうも最近退屈なのでゲーム屋にてテクニクティクスを買ってきてみました。現れる“音の波紋(サウンドウェーブ)”を踏んで(?)音をつなげていく音楽アクションパズルゲーム。基本的には忙しいリズムアクションなんだけど、サウンドウェーブをうまいこと動かしてつなげると「予約」という状態になって、自動演奏してくれるのがうれしい感じ。このへんがパズルで、それでまあやっぱり忙しいのですが。
というわけでなかなか気に入ってはいるのですけど、それとは別のごく個人的な印象として、「プレイヤーのやることがもうひとつ“音楽”になっとらんのじゃないかなあ」なんて思ったのです。具体的に言うと、方向キー(アナログスティック)で動かすプレイヤーキャラを「動かさなくていい」瞬間があるのが、ちょっと。プレイする僕の気分としては、「キャラクターを動かしつづけることが“音楽”になったらいいのに」と思いました。
たとえば僕はソニックチームのナイツのようなゲームを想います。プレイヤーがそのプレイで音楽を演奏する、というゲームがあるとしたら、ああいったものじゃないかと僕は思います。ある程度正確な操作に、それなりに適切なアドリブを加えつつ、とにかく流れを止めないプレイに音楽がシンクロするなら、それはさぞや気持ちがよいんではないかと思うのです。
2.22/2001 | ■ キャラクタ・ユーザ・インターフェイス |
▼先日ゲーセンにて友人のプレイするザ・タイピング・オブ・ザ・デッドをなんとなく観ていたら、すでに何度も観たりプレイしたりしたはずのシーンに突然僕はドッキリして、「あー、ザ・タイピング・オブ・ザ・デッドってこーゆうゲームだったのか」なんてことを思ったのでした。まあいつものオーゲサな話です。
どういう話かというと、このゲームのチャプター2の道中、プレイヤーのタイピングに打ちのめされたゾンビ(だったか、そのゾンビに殺された一般人だったか)の倒れたナキガラの傍らに思わせぶりな鍵が落ちているというシーンがありまして、その鍵は後に部屋に閉じ込められてゾンビに襲われる住人を助けるために使われるもの(じっさいに鍵を使う描写がないのでよくわかりませんが、たぶん)でありプレイヤーはそこでその鍵を拾っていくのですけど、僕がドッキリしたのは、それまでまったく気づいていなかったのですが、その「鍵を拾う」、「扉を開ける」というアクションに、ゾンビを倒すのと同様「タイピングが要求されている」ということだったのでした。つまり、いうまでもなくザ・タイピング・オブ・ザ・デッドというゲームは「迫り来るゾンビを正確なタイピングで打ちまくれ!」というザ・ハウス・オブ・ザ・デッドのパロディだったはずなのですけど、そこで持ち込まれた「タイピング」というアクションが、じつはいつのまにかザ・ハウス・オブ・ザ・デッドでのガンアクションの機能を超えて、プレイヤーになんだかよくわからないことを要求しつつあったのです。、「あー、ザ・タイピング・オブ・ザ・デッドってこーゆうゲームだったのか」というのは、そういうことです。
前にもパラッパラッパーだとか、マウスボタンをクリックするとストーリーが進行する同人ゲームの話をしましたけど、僕はこういうゲームの「アクション性のすりかえ」というか、「ゲームのものの考えかた」みたいなのが大好きで気になってしょうがないです。これは僕の考えなんですが、どうもこのての「ものの考えかた」というのは、ゲームを構成する立場の観点じゃなくて、「ゲームをプレイする立場の観点」による発想なんじゃないかと思います。鍵を拾うためにタイピングする、というのはインターフェイスとしてはかなり根拠を失っていると思うんですが、「鍵を拾いたい」というプレイヤーの気分には忠実であるわけです。そしてこの「よりプレイするためのデザイン」というか痛快なウソというのはコンピュータゲームにとってとても大切なものなんじゃないかという気が、なんとなくします。
そういえばちょっと違いますがクイズ迷探偵ネオ&ジオというクイズゲームにオリにとじこめられた主人公が「おい、このオリ、クイズで開きそうだぞ!」(でしたっけ)と叫ぶシーンがありました。これも好きです。