update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2002 Apr. |
4.1/2002 | ■ 劇パト |
▼なるべくなんとなく書いていくことにしますね。本日は新宿で『WXIII 機動警察パトレイバー』を観てきました。個人的にはあんまピンときませんでしたが、まっとうな映画ではあります。
それより思ったのは、こんなゲームにしたらいかにも面白そうなハナシなのになんでゲーム化の予定がないんだ、Production I.G.の「やるドラ」チームとかはいったい何をやっておるのだ、ということだったんですが、今回アニメーション製作はI.G.ではないのですね。あらら。今回の企画(とか、とり・みき氏がやりたいこと)って、ゲームのシナリオに向いているような気が、なんとなくしました。
4.6/2002 | ■ ビルドゥングス・ロマン |
▼ICOの企画・ディレクターの上田文人さんはいくつかのインタビューに答えて「企画当初、AIを使ったゲームが流行っていたのだけど、それらは画面の中にいるキャラクターに指示を出すタイプのものが多かったことが不満で、もっと直接コミュニケーションを取るようなものを自分なりに考えた」というような意味の発言をしています。じっさい、ICOに登場するねえさんことヨルダは、ひなたが好き、とか、泥道は嫌い、とか、人目があるとベンチでボーイフレンドの隣に座るのを躊躇してしまう、とかいった他愛のない、でもそこがたまらなくいい! ともいえる行動原則に基づき自律的に行動する一種のAIであるのは知られた話となっております。
さて、「当時流行っていたAIを使ったゲーム」というのは、はっきりいってしまってそれはがんばれ森川君2号のことじゃないかなと僕は思います(あとワンダープロジェクトJ2とかも含むのかなとか、森川君って流行ってたか? とかはともかく。あるいは上田さんが具体的なゲームの名前をあげてる僕のしらないインタビューとかあるかも。誰か知ってたら教えてください)。念のため言っておくと森川君2号は学習しそれに基づいて行動するというヨルダよりももっと高度なAIですし(実はヨルダのAIも学習してたりするのかもしれませんが、セーブデータのサイズからいってもあんまりなさそうです)、がんばれ森川君2号というのはいわば、「あるいきものが考えて、学んで、成長するさまを見るのは、それだけでゲームだ」という潔い信念によってつくられているゲームなのでそれ自体には文句を言う筋合いはないわけですけども、だとしても上田さんのような人にとっては、その内容に不満を覚えるものだったのだろうと思います。不満とは何か、これも勝手な憶測というか、僕の勝手な思い込みなのですけど、ひとことでいえばそれは「絵にならない」、ということだったんではないかと。
ここで「絵にならない」、というのはもちろんグラフィックがうんぬんといった話ではなく、物語における構成の問題です(セツワロンテキな、ていうんですか)。つまり現状においてある種の「幼さ」としてしか表現されえないAIキャラクターは、最終的にも「幼い」ままでなければ、逆説的にキャラクターというものを発揮することはできないのだから、「AIキャラクターが成長する」っていうのはいわば口実っていうか幻想で、「幼い」、成長しないキャラクターとの関係を通じてその「保護者」が成長する、というのがただしく「絵になる」物語だといえるのであり、そのためにはその物語の主人公たる「保護者」も画面内に設定される必要がある、ということになるのだろうと思うのです。まあそのじっさいに上田さんがそのように考えてたかどうかはわかんないんですけど、ICOがタイトルどおりヨルダではなくイコの物語であるのは、そういうことではないかと僕は考えます。
えーと、なんかAIの話しようと思ったら物語の話になってしまいましたが、じっさいのAIの仕組みよりも「AIキャラクターがゲームの画面においてどう見えるか」から逆算した発想って、じつにコンピュータゲーム的ではないかと僕は思うのです。
4.7/2002 | ■ スターシップ・ランデブー |
▼あー。不覚にも昨日書き忘れました。
ICOのイコ(プレイヤー)とヨルダ(AI)の関係について考えてたら、じつはそれとほぼ同じ関係を実現していたゲームがすでにあったことに気がついたんですよ! つまりそれはなんのことかというと、R・TYPEにおけるR-9とフォースの関係のことなんですが。ガーン!
いや、冗談じゃなくて。
4.13/2002 | ■ ビービー |
▼4月12日発売のファミ通の巻頭に「PlayStation BBの疑問を解明!!」っていう記事が載ってるんですけど、これを読んでもPlayStationBBの疑問がまったく解明されないってのが、なんていうか、ビックリですね。ようするにPlayStation BBっていうサービスは4月とか5月にはなんのサービスも提供できませんよーというふうにしか読めない(そもそも満を持して開始されるプレイステーションのブロードバンドネットワークサービスが、いまのところなんのプロモーションもされてないってのが変)。なんかこう、ランドネットDDより悲惨な状況。
もちろんFinalFantasy XIはオンラインプレイできるんでしょうけど、FFXIはPlayStation BBと関係ないんですよね
あとこの記事でSCEの広報にサービスの詳細について聞いてるんですがそのコメントがふるっていて、「各プロバイダーのサイトにはゲーム専用サイトが用意されると思います。ゲーム専用サイトはiモードのメニューサイトに近いイメージで、メーカーさん独自のコンテンツが並ぶことになると思いますよ」ですって。もうちょっと夢のあるコメントをしてください。
あとブロードバンドは結構なんですが、「ビービー」っていう言葉の響きのまぬけさはどうにかならんのでしょうか。
4.13/2002 | ■ ビービー |
▼4月12日発売のファミ通の巻頭に「PlayStation BBの疑問を解明!!」っていう記事が載ってるんですけど、これを読んでもPlayStationBBの疑問がまったく解明されないってのが、なんていうか、ビックリですね。ようするにPlayStation BBっていうサービスは4月とか5月にはなんのサービスも提供できませんよーというふうにしか読めない(そもそも満を持して開始されるプレイステーションのブロードバンドネットワークサービスが、いまのところなんのプロモーションもされてないってのが変)。なんかこう、ランドネットDDより悲惨な状況。
もちろんFinalFantasy XIはオンラインプレイできるんでしょうけど、FFXIはPlayStation BBと関係ないんですよね
あとこの記事でSCEの広報にサービスの詳細について聞いてるんですがそのコメントがふるっていて、「各プロバイダーのサイトにはゲーム専用サイトが用意されると思います。ゲーム専用サイトはiモードのメニューサイトに近いイメージで、メーカーさん独自のコンテンツが並ぶことになると思いますよ」ですって。もうちょっと夢のあるコメントをしてください。
あとブロードバンドは結構なんですが、「ビービー」っていう言葉の響きのまぬけさはどうにかならんのでしょうか。
4.15/2002 | ■ ボードゲーム・イン・モーション |
▼えー、ゴタブンにもれず、カプコンから発売されましたボードゲーム『Catan』でみんなして遊んでますよ。もうさんざん言われたあとなんでいまさら言うまでもないよなとは思うんですが、やっぱりオモシロいと言うしかないじゃないかちくしょう、という感じ。まだプレイしたことがないかたはやってみるのが一番だと思いますけど、プレイヤーが考えなきゃいけないことがすごく整理されてて、「何をしたらいいのかよくわかんない」みたいな局面がまったくないのがすごい。そのくせにして「だいたい6割(くらいかな?)は運」ていうゲーム展開なもんだから、負けたほうは「作戦は悪くなかった、ただダイスが!」って思うしかなくて何度でも再戦を申し込んでしまうわけです。やばいですな。
さてさて、これのオリジナルであるところのドイツ版『Die Siedler von Catan』は1995年あたりに発売されたんだそうで、月並みではあるけどいわば「コンピュータゲームを通過したボードゲーム」なんて言いかたが可能なのかもしれません。僕が思ってるのはこのゲームのでプレイヤーが自ターンで行うダイスロールのシステムがちょっと変わってるなー、ということなんですけど。
たとえばモノポリーとか人生ゲームみたいなスゴロク型のボードゲームではご存じのように、時計回りとかその反対とかの順番で各プレイヤーがサイコロを振ったり持ちカードを使ったりして手番をこなすというシステムになっています。でもじっさいのとこ、このプレイヤーターンをまわすシステムっていうのは「本質的には同時に進行すべき手続き」を、ゲームの進行上便宜的に順番に行っているに過ぎないケースが多いんじゃないでしょうか。手番が順番に回ることで可能になる戦略もなくはないとは思いますが、本質的にはターンがひとまわりする、つまり「全員が1度づつ同じ手続きを行う」ことで初めてゲームが1単位進行する、という前提をルールが表現しているものと思います。
『Catan』もモノポリーと同様、プレイヤーターンが周回し、手番となるプレイヤーはサイコロを振ったり持ちカードを使ったりするゲームなんですけれども、ちょっと変わってるというのは、『Catan』ではプレイヤーがサイコロを振ることの意味がモノポリーや人生ゲームのようなゲームとはやや異なっていると思うのです。具体的にいうと、『Catan』でプレイヤーは自分の手番で2つの6面ダイスを振って目を決めますが、そのダイスの目による効果
その数字を持った土地に隣接する辺を開拓して家を建てていれば、その資源カードを入手できるはダイスを振ったプレイヤーにのみ与えられるのではなく、プレイヤー全員に適用されるというルールになっているのですね。『Catan』のダイスロールはプレイヤーが自分の手番で行うにもかかわらず、プレイヤーのための手続きではなくて「ゲーム全体を進行させる手続き」になってるのです。
実際にはサイコロの目が「7」だと振ったプレイヤーが盗賊を配置する権利を得るというルールもあるので、ダイスロールが完全にプレイヤーと無関係なわけではないのですが。
つまり『Catan』のダイスロールは、「全員が1度づつ同じ手続きを行う」というプレイヤー同士が行うゲームの単位とは別の、「世界自体が進行する時間単位」を表現するルールになってるんじゃないかと僕は考えます。そしてこういったルールの想定は、ほかならぬコンピュータゲームが実現してきた「ゲーム」の影響下にあると僕は考えるわけです。プレイヤーを、ではなく「世界」を表現するルールを設定することで「ゲーム」を実現する、というのが僕の(とりあえず)考えるコンピュータゲームなのですが、そういう意味で思いっきり大胆に言うと『Catan』はコンピュータゲームになっていると思います。「世界のダイスロール」をプレイヤーが行わなければならないところがボードゲームたる『Catan』の"限界"であるとも申せますでしょうか。
なんつって、あんまりボードゲームのこと知らないのでこういうシステムのゲームはコンピュータゲーム以前にもあるかもしれず。どなたか知ってたら教えてください。