update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2002 Jan. |
1.6/2002 | ■ ツーオーオーツー |
▼なんか遅くなってしまったんですが、あけましておめでとうございました。
▼新年からはるか昔の話なんですが、ごぞんじ東浩紀さんの講談社現代新書『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(通称「東さんの萌えっ娘どうぶつ」)を読みましたよ。われわれ(ここでは12人の妹がいる方の)の消費と創作が、ポストモダニズムの予言どおり全体的な脈絡を欲望することすらなしに、表層と表層の想像的な総体(データベース)において萌え、感動し、初回の行列に並び、二次創作を作り、オンリーイベを企画し(ていうか、「オンリーイベを企画する」ていう二次創作をし)、全員でおんなじことをしながら孤立的に欲求を充足していく「動物化」の世界観に正確に対応しており、この「データベース的動物」が今後の社会状況を支配していくだろう、というこわい話、のわりにはこのハシャいだムードはなんだろう、という本。東さんがここのところ事あるごとに議論に引き出す「データベース消費」「動物化」「ポストモダン社会の2層構造」「過視化」「でじこ」「痕」「YU-NO」あたりがいっきに読める決定版です。
とはいえ、ゲーム関係の議論にはやっぱりなんだか立ち止まってしまうのです。いちばんよくわからないのは、「いまや作品なるもの、創作なるものはデータベースとその操作による表現である」っていう主張と、たとえばノベルゲームに「実際に」存在する「データ」とを、混同しちゃっていいんかしらってところ。「データベース消費」的傾向が一番進行してるのがギャルゲーの一部ジャンルだってのはそうかもしれないなと思うは思うんですけど、ギャルゲーに「データベース」が「実際に」存在し、その再構成によりオリジナルと同等の価値をもつ二次創作が可能だと考えられている、ていうのは、どうかなあ。
あとあと、コンピュータゲームのプレイヤーがプレイにおいて解離的な傾向を見せる、つうのもなんかフツーの話に聞こえています。RPGって何の略か説明するまでもないと思いますけども。
痕に内蔵されるのはあくまで「データ」であり、その再利用はデータベース的価値観によるのではなく、単に効果の経済性とか合理性によるものだと思います(絵がかけないとかね)。ただし、その利用に際して、それぞれの「データ」にはオリジナルのゲームでの構成・シークエンスの記憶に基づく意味付けがあり、そのような「データ」とエフェクトの想像的な関連「データベース」が再構成され、それをもって「データベース消費」的な創作と考えることはできるかもしれません。でももっかい言いますが、あくまで「実際に」存在するのは「データ」であって、「データベース」ではないし、その構造が画像データの構成によって示されていたり、データの解析が「データベース消費」的な傾向から欲望されていたりするというのは、言い過ぎだと思います。そもそも「データベース」っていうのはデータと構造、設計と管理と利用とが厳密に分離され定義されるとてもモダンな理念のはずですが、東さんが「データベース消費」というとき、そこに想定されるのが「データベース」の設計・管理のことなのか、その利用のことなのか、両方だとして設計・管理が誰で利用が誰なのかがはっきりしないのがよくないんではないですかね。
東さんが「新しい二次創作」の例として挙げてるオリジナルのデータファイルを使ってゲームを別プラットフォームに移植するアプリケーションは、どっちかっていうと90年代に草の根ネットのフリーソフトコミュニティで盛り上がった「勝手に移植」の系譜に属するもんだと思いますよ。そしてそれは、ゲームをデータとみなすクールな行為というより、オリジナルやプラットフォームに固執しようとする情熱的な“運動”でした、歴史的には。
ちなみにもうちょっと言うと、もしかしたら東さん自身が本書P.117図17のこの図を、痕のデータの再構成として「創作」したかったんじゃないか、なんて思うんですけど、これはこちらの言い過ぎか。あとこの本でいっちばん不思議なのは、でじこみたいなキャラクターを擁護しといて、なんで東さん「どーぶつ化したポストモダンちゃん」みたいなキャラクターを作んないのかしら。
つまりあれだ、法知谷いずみ(ほつともだに・いずみ)ちゃんはランドセルをしょって幼稚園帽をかぶった高校生で、胸におっきい『動物化するポストモダン』を抱えたピンナップガールです(帽子にはメメっとくんのバッジ、ランドセルにはクラインの壺のキーホルダー)。どーぶつ化によりネコミミ+肉球+しっぽのケモノ系オプションセミカスタム(ネコひげはアップ時のみ作画)、水をかぶるとリゾームに変化しちゃうお茶目な一面も…(以下募集)
つうわけで、沢村せんぱいにてきとうに発注したらこんなラフが上がりました。なんかうまく伝わらなかったようです。
水をかぶった姿は冨沢ひとし先生にデザインをお願いしたいところ。
1.16/2002 | ■ ホイールズ・オブ・フォーチュン |
更新情報 |
◆なんとなくトップページを変えてみました。でもデザインはおもいつかなかったんで前回のバリエーションですが。 ◆あとcraftmanshipのログ整理など。 ◆冬のイベントの記録をevent-handlerに収録しました。 |
▼基板に手を出してしまいました。
てべつに深刻に告白する必要もないんでしょうけど。ゲーム基板っていうのは欲しいし買えない値段じゃないよなと思いつつなんとなーく購入を躊躇しつづけてて、今までは友人らが(明らかに興奮の面持ちで)基板屋でそれを購入してくのを横目で見てるだけだったんですが、ついに僕も手が後ろに回ったというわけですな。やれやれ。…それにしても、その記念すべき一枚目がクイズなないろDREAMS 虹色町の奇跡だってのは、いったいどういったことでしょうか。これが2002年の意志なのか。
でもでも、これROM単体で3000円、CPS2のマザー合わせても5000円で買えるんですよ。たぶん今サターン版とか手に入れるより安いんでは。
ちなみにいままで基板を買ってなかったってのはひとえに、電源とかモニタとかハーネスとか用意するものが多くてめんどくさいという理由だったのですけど。今は同居人が電源とかJAMMAハーネスとか持ってきたので面倒なしに遊べるというわけだったのでした。シナジー効果というやつですな。
いや虹色町の奇跡がかなり好きなゲームであるのは間違いないんですけどね。このゲームで僕が好きなのは、「あの娘のとこまで行って逢いたいな」とか「あの娘はちょっと避けて通りたいな」っていう気持ちと、それにウラハラな結果、っていうのが「ルーレットの目押し」っていう操作ですごーくうまく表現されてるってとこなんでした。
解説すると、虹色町の奇跡というゲームでプレイヤーはすごろく方式でルーレットの目だけマスを進めて、止まったマスでイベント(女の子がいるマスであればその娘に関するイベント)が起きるゲームなんですね。で、そのルーレットはかなりの確率で目押しが利くわけです。そしてとはいえそれなりの確率でスカるのであります。
まだまだ何度でも言いますけど、ギャルゲーみたいなゲーム(いや、ギャルゲーみたいなゲームに限らないかもしれませんが)で僕がプレイしたいことというのは、ある女の子とかあるエピソードを「選択」することではなくて、自分が「選択できないこと」のほうにあると思っています。虹色町の奇跡というゲームは、とある女の子のいるマスを狙ってルーレットを目押ししていても、ルーレットがすべって別の女の子のマスに止まってしまって、そこでのクイズをクリアすると、特に狙ってない女の子の好感度が上がってしまうというゲームなんですね(まあじっさいには別の女の子の好感度が上がってもゲームの進行にかかわるわけではないんですけども)。僕はそういうところが好きです。
僕は持ってないんで知らないんですが、コンシューマ版虹色町の奇跡はルーレットがないモードがあるらしいんですけどもね。