update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2001 Jun. |
6.2/2001 | ■ エントリ・ポイント |
更新情報 |
◆2001年宇宙の旅も6月の国にさしかかったので、ドミノピザみたいなのをやめてトップページを衣替えしました。 ちなみタイトルの"dotimpact"の後に続く"&h07D1"はなんとなく景気付けに付けてるだけなので今後も続く保証はなく、リンクなどなさる際には"dotimpact"だけのほうがよいかもしれません。 ◆ほったらかしになってたところをいろいろ直しました(ページの整理、リンクなど)。 |
▼ウェブページだとかウインドウのレイアウトみたいな、リサイズ可能でオブジェクトの位置がダイナミックに変わるようなデザインが好きで、自分でページを作るときもたいていは画面サイズに依存しないようにサイズの%指定を多用したりしますが、それとは関係なくもなく作業中思いついたのはあのファンタシースターオンラインの、前面フィールド画面←→メニューウィンドウ表示状態モードレスっぷり(いや、ぜんぜんモードレスじゃないですけど)はかつてからコンピュータゲームに夢見られていたものじゃなかったかなということで、じっさい発売当時友人ちでPSOのプレイを見て、僕がいちばん惹かれたのもそこ(つまり、メニューを開くとフィールド画面が右上に寄せされて、プレイはそのまま進行するというインターフェイス)だったように思います。
▼たしか遠藤雅伸スレが盛り上がってたころにオンラインで注文したんだったDT Load of Genomesが発売日に届いたのでプレイしてます。とはいえ、本編のストーリーとかカードゲーム部分にはまだぜんぜんピンときてませんで、むしろ、というか案の定、このゲームのもう一つの側面、ハイパーテキストノベル部分に僕はたいへん惹かれているのでした。
カードゲーム部も剣道部員がサボテンと闘うみたいなインデペンデント系カードゲームのノリ(そんなジャンルはないですか)は好ましく思いますが、「これってふつうにカードでゲームしたほうが絶対盛り上がるよな」と思ってしまいます。
あと、BGMはオフにしちゃいました。
DTのハイパーテキストモードのカード一覧からカードを選択してテキストを開くと最初に表示されるのが
というカードの名称を示すタイトルページで、各カードに日本語と英語のコードネームが別々にあるあたりがEVEZOO一流と言えそうですけれどもそれはともかく、全てのカードに共通するこのタイトルページの次のページから、それぞれのカードのテキスト(それはそのカードで生成されるDTユニットの解説であったり、そのユニットにまつわる物語であったりします)が続くのですね。で、そのテキスト部分は驚くほどたくさんの別のテキストにリンクされたハイパーテキストになっているわけです。
なんというか、説明しづらいのですが、僕は、上に書いたカードの「タイトルページ」とテキスト本体とが、テキスト本体を構成するハイパーテキストとは違う意味で「リンク」されているように感じていて、それを自分が楽しんでいるように思うのです。いったい何と何が「リンク」されているのか。さらに説明しづらいのですが、いわばそこで「ゲームボーイとフィクションとが『リンク』されている」、というのが僕の感触です(オオゲサだ)。立ち返ってみると実に不思議に思えますけど、コンピュータゲームに「フィクション」を感じることというのは、実はあんまりないんじゃないでしょうか。
6.3/2001 | ■ ポスト・メソッド |
▼毎度ながら別の掲示板での書き込みをこちらにメモしておくのです。
矢本広さんちのゲームのコトバBBS、話題「ゲームに3Dが求められた理由」にて。
ども、おじゃまします。
セガサターン発売当時、『クロックワークナイト』をプレイしてその奥行き方向にパースのついた画面に違和感を覚えたことがあります。そういう映像に慣れてなかったという事情も多分にあったと思いますけど、ペパルーチョにかなり「寄った」絵に見える『クロックワークナイト』の画面では、物がそんな「立体的に見えない」であろうことに目が気づいたという面もあったように思います(またその後の『風のクロノア』あたりではそうは見えなかったのも、あるいは画角の問題だったような気もします)。
逆にいうと、往年のシューティングゲームで極められた「多重スクロール」にしても、それは単に止むに止まれぬ貧弱な表現では必ずしもなくて、われわれの視覚的あるいは映像的主観を十分に(場合によっては3Dによる同様の表現以上に)満たしていた部分だってあったろうと僕は思っています。ラスタレーシングゲームにしても同様ではないでしょうか(『アウトラン』の目のさめるようなアップダウンとか←かなり美化してますか)。
それが今となってはいかにも「ゲームっぽい」画面であったとしても、われわれはそこに「映像」を見てたはずで、つまりそれはわれわれの視覚的主観に即したものであったはずで、より「自然」な、「当たり前」なゲーム画面というものを考えるとき、それでは実際のところわれわれは今まで何を見ていたのか、ということが検証されてしかるべきだろうとは思うのです。
思いつきで書いてるのでまとまらないついでに言いますと、『プロギアの嵐』の画面がちょっと新鮮だなと僕は思っているんですが、つまり横スクロールのシューティングゲームを「ケイブらしく」していった結果、なんというか絵巻物みたいな、一般的な横スクロールシューティングとは別の意味でストレンジな画面になってるなあと。絵巻物が文字通り「スクロール」するわけですね。
spinn寺本さんちの*open storageにて。シスタープリンセスの話題(そうでもない)。
血縁度! ズルいパラメータだ。いいなあ。
>ゲームと可能世界
先日僕は『Kanon』というノベルゲームをプレイしてまして、このゲームはおおざっぱに言って(いやおおざっぱに言ったら怒られる系の作品ですけど)忘れられた約束をめぐる物語になっていて、ゲームの序盤、プレイヤーが日中いろいろあったある日を終えて眠りにつくと、「その日あった出来事が、昔幼い頃の出来事の繰り返し(リフレイン)であったことを示唆する夢」が挿入されるんです。で僕は、これはプレイヤーのその日の行動がどういう展開になっても、「その日あった出来事が、昔幼い頃の出来事の繰り返し(リフレイン)であったことを示唆する夢」が挿入されるのかっ! と思ってワクワクしたんですけど、2回目プレイしてみるとそうではなくてちょっとガッカリしました(どういう行動を取っても最終的に同じ展開になってしまうのでした)。
つまり現在の選択による「過去の確定」というのはかなりズルくて面白いシステムなのかもしれません。普通それは「ご都合主義」と呼びますけど。
6.10/2001 | ■ 「『プレイヤーがジャンプしたいときにジャンプできる』ことは、コンピュータゲームにおいてリアリティを強化することに他ならないではないですか!」 |
更新情報 |
◆AIRも終わらしたところで、まえまえから考えてたところをまとめてみました。「#21 『時間管理される物語について』」をthink-routineに追加。 |
▼さてさて最近はもちろんクレイジータクシー2ですよ。今回はクレイジーホップの導入によって前作においてほぼ唯一「わざとらしい」存在であったあの「車載トレーラー(というのでしょうか)」がいなくなって、クレイジータクシーの世界のリアリティはより完璧になったといっても過言ではないでしょう。
なんていうと「ビルも飛び越さん勢いで飛び跳ねるタクシーのどこがリアルなのか」とかツバを飛ばす了見の狭い向きもあるのかもしれませんが、もちろんこういう向きにはこうぴしゃりと言ってやるべきです。「『プレイヤーがジャンプしたいときにジャンプできる』ことは、コンピュータゲームにおいてリアリティを強化することに他ならないではないですか!」
こーゆう正しいことが言い切れるゲームというのはなかなかないので、機会を逃さずもう一回言っておきましょう。「『プレイヤーがジャンプしたいときにジャンプできる』ことは、コンピュータゲームにおいてリアリティを強化することに他ならないではないですか!」
ところで釣り橋とかでホッピングを妨げるように、屋根とか鉄骨があったりするじゃないですか。あれ、ゲームウォッチのドンキーコングを思い出します。
6.12/2001 | ■ タイム・アブストラクション・レイヤ |
▼えー、#21ですけど、いってしまうと僕はゼルダの伝説 ムジュラの仮面について「#16 フォービドゥン・インターフェイス」で書こうとしたこととほぼ同じことを説明したつもりなのでした。そういえば#16はあんまりウワゴトめいてたからか誰からもまるきり反応というものがありませんでしたけど、ウワゴトなりに本気なのです。
そしてさらに考えつつあるのは、少なからず言及される「映画のように決まった時間軸を持たないゲームというメディアは、プレイヤーがそれを自由に操作できるのだ」というようないい方が、じっさいのところどのくらい正しくあるのか、ということで、もしかしたら、「ゲームの時間軸」、というようなものが例えば映画のそれと思いがけないくらいに異なっているために、プレイヤーは誰もがその実相を掴みそこねて「それを自由に操作している」と錯覚しているのかもしれません。ありそうなことではありませんか。
さらにさらに脈絡はないんですけど、もうひとつ考えているのは、コンピュータゲームというのは、十分短い間隔としての「1プレイ」という時間単位を、もしかしたら常に必要とするのかもしれない、というあてずっぽうの仮説で、逆にいえば「十分短い間隔としての『1プレイ』という時間単位」を設定することで、ゲームをゲームたらしめることができるのかもしれないわけで、これは巨人のドシン1が臆面もなくやってのけてる(だだしこの点に関しては、太陽のしっぽにその萌芽はあったのかもしれませんが)のを見て以来なんとなく気になっているのでした。
やっぱりウワゴトめいてるのでこのへんで。