feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン release : 10.21/2001 | update : 10.21/2001 |
■"アフォーダンス"という考えかたを、ご存知だろうか。あるいはそういった言葉そのものはご存知ないかもしれない。でもその考えかたが説明しようとすることについては、たいていの人は思い当たるところがあるんじゃないないかな、と僕は思う。アフォーダンス理論は人やそのほかのどうぶつが環境を認知していくメカニズムを説明する理論であり、「知能」とか「知性」とかいったわれわれがいつのまにか頭のほうに獲得したことになっているあれを再定義する仮説であり、たぶん多くのひとが「おもしろい!」と感じることができる考えかただ。
■アフォーダンス理論はわれわれのまわりに、「環境」と呼ばれるものが間違いなくあることを、まず重要視する。うごく「環境」があり、うごかない「環境」がある。見える「環境」があり、見えない「環境」がある。これら「環境」にわれわれ(あるいはそのほかのどうぶつ)がふれるとき、それが「意味(ここでは、それによって何かを知ったり役に立ったりする性質とか情報とかだと考えてください。それによって雨をふせいで濡れなくてすむのが傘の『意味』です)」となる、というのがアフォーダンスの主張だ。ここは注意して言わなければならないのだけど、われわれがその「環境」に 「意味」を与えるのでない。そういう「あらかじめわれわれが何かを知っている」という考えかたとは別のところにアフォーダンスの考えかたはある。どうだろう、われわれがたとえば片手でドリームキャスト本体を持つ(ふつうあんまりそういうことはしないだろうけど)とき、われわれ自身がその知識と経験によってなにからなにまでを調節しているというより、むしろドリームキャストに、「ドリームキャストを片手でどう持つかを教えてもらっている」気はしないだろうか。それはかたちであり、重さであり、手ざわりであり、つまりは「環境」である。ドリームキャスト本体という「環境」に、われわれの固有の手のひらがふれるとき、そこにある「意味」によって、片手でのドリームキャストの持ちかたという独特のふるまいが生まれる。その「意味」がどういうものかをもっと知りたければ、手のひらに絵具をつけて何度かドリームキャストをつかんでみるといい。それは産業ロボットがドリームキャストをつかむように正確ではないはずだけど、かといってまったくのアテズッポでもないだろう。その色のつき方がすなわち「ドリームキャストを片手で持つ」という「意味」だと考えることができる(ちなみに実験した後のドリームキャストはオリジナルペイントだといってヤフオクで売るといいだろう)。おわかりだろうか。われわれの持ちかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれの歩きかたはわれわれ自身が決めているようでいて、必ずしもそうではない。われわれは気まぐれではなくある種の必然において正確にあくびをかき、のびをし、寝返りを打つ。駅には誰もが2段づつ駆け上がる階段が出現し、日本の大学は日本の大学生の手の高さで壁が汚れていく。同じ街にも人には人の、犬には犬の、猫には猫の地図があり、人道と犬道と猫道ができていく。アフォーダンスとはそういった、世界のひみつに触れる感のある、素敵でたいせつな考えかたである。
■さて。一方そのころ、宮本茂はゼルダの伝説 時のオカリナのプロデューサーインタビューにこたえて、こういった発言をしている。
宮本 (…)今回のゼルダでは、プレイヤーが向こう側に渡りたいと思ってジャンプしているのに、プレイヤーはジャンプボタンを押していないんですよ。
――― すいません、そのことの重要さが今ひとつわからないんですが?
宮本 リンクのジャンプは何種類かあるんですが、どの状況で飛ぶかによってジャンプのスタイルが変わるんです。
――― 一回転してビシッと剣を振ったりすることがありますよね。
宮本 ジャンプする指示も、ジャンプの形を決める指示も、全て踏み切った場所にデータが入っているんです。地形の中にキャクター(原文ママ)を操作したり演出したりする情報が入っているシステムなんですよ。
実は、これはジャンプのまったく新しい「作法」であるだけでなく、3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらすものなんです。簡単に言えばインタラクティブの中に細々と入るムービーの演出なんですが、そのデータを地形に入れ込むというのが新しいんです。(…)この「作法」を推し進めていくと、もっともっと変なゲームがつくれますよ。
JK-VOICE with AMIGOS編 『ゼルダの伝説 時のオカリナ 百科』■つまり、このインタビューを読んで僕が最初に考えたのがアフォーダンス理論のことだったのだった。もちろん宮本茂の発言にはアフォーダンスなんてひとことも出てこないし、宮本茂自身がアフォーダンス理論に影響をうけたかどうかだってわからない(ふつうそんなわかりやすくモノゴトは進んだりせんでしょう)わけだけど。でもそれはどうあれ、ここで宮本茂がゼルダに実現したと言っているシステムは、「そこにある地形(環境)がプレイヤーのあるべきふるまいを規定していく」という、アフォーダンスの考えかたにかなり近いものになってるんじゃないだろうか。そしてそれに彼は「大きな可能性」を感じているわけだ。
■たぶんアフォーダンスの考えかたは、現在のコンピュータゲームとは相性がいい。「環境」と自分のふるまいに「意味」を見つけていくダイナミックなプロセスは、コンピュータゲームのインタラクションそのものだし、そのような「環境」を作りこむことが、つまりはコンピュータゲームを作るということだろうから。宮本茂はたぶん、3Dのゲーム空間という「環境」が提供する「意味」にたいして、現在のゲームはそこにあるべき「アクション」を提示しきれていないことを(3Dアクションゲームの致命的な欠陥として)問題にしている。くわえてさらに、そこにある「意味」に見合うふるまいを提供できる限りにおいては、「必ずしもその『アクション』をボタンに割り当てる必要はない」とまで考えているはずだ。だからその「アクション」はプレイヤーキャラクターの操作としてではなく、「特定の地形におけるプレイヤーキャラの自律的なふるまい」として記述される。そのふるまいがプレイヤーがその「環境」に感じる「意味」を十分にカバーするものであれば、そこに(ボタンを押すみたいな)明確な因果がなくても、プレイヤーはそれを「自分のこと」として感じるはずだ。じつはこういう考えかたを僕は過去のゲームに見つけてきてこのサイトで紹介しているつもりだったので、実製作を通じて未来のコンピュータゲームのことを誰よりかんがえている(だろう)宮本さんがそういったゲームのありかたにはっきり言及したうえでそれが「3Dのインタラクティブに大きな可能性をもたらす」、なんて熱っぽく語っているのには(それよりもっと頼もしいのは「もっともっと変なゲームがつくれます」という発言なのだけど)、ザ・わが意を得たりという感じでたいへんよろこばしく僕には思えたのだった。
■と、いつもならここまでなのだけど、今回もうちょっと話をすすめようと思うのは、宮本茂のこの考えかたが、もういっこのたいせつな考えかたにも似ているからなのだった。そういえば件のインタビューで語られていたシステムの話をまえ友達(ていうか、沢村せんぱい)と話していたら「それって、たとえばF-ZEROでダッシュプレートを踏むとプレイヤーマシンが加速する、てのと、どう違うのかな」と言われて、なるほどそういう考えかたもあるなと思ったのだけど、つまり宮本茂のいうシステムは、従来なら目に見えていてプレイヤーが自覚的にそれを選択していたものを、見えなくしてプレイヤーにそれと気づかせないまま自動的に選択させるためのものなのだった。少なくとも、そういう面もある。
■法律学者のローレンス・レッシグさんは近著『CODE インターネットの合法・違法・プライバシー』のなかで、われわれの生活におけるさまざまな選択をいろいろなレベルで制限する「規制」を、“法律(それ犯罪じゃん、というあれだ)”、“規範(こんなことしたらかあちゃん泣くだろうな、というあれだ)”、“市場(それにつけても金のなさよ、というあれだ)”、そして“コード(あとから説明)”の4つに分類したうえで、インターネット(それに代表されるサイバースペースを実現するテクノロジー)がほんとうに社会に浸透したとき問題となるのは、4つの「規制」のうちの“コード”、アーキテクチャの規制が支配的になることで、いままではその4つの「規制」をバランスすることで保たれてきた、たとえばいままで憲法で保障されてきたような、素朴だけどたいせつな「人間観」のようなものが破壊される可能性があることだ(いや、たぶん破壊されるだろう)、と指摘する。レッシグが分類するところの、問題だと考えるところの、サイバースペースでの“コード”による規制というのは、人間が従来(あるいは憲法起草時)「物理的に無理」、つまりそれが「自然」だと考えられていた部分を、現在のテクノロジーが「コーディング」できてしまうことで、われわれの選択肢そのものが規制される事態をさしている。法律なら場合によっては破ればいい(捕まるけど)。規範も気にしなければ大丈夫だ(かあちゃんに怒られるけど)。市場がいくら残酷な現実を示しても、たとえば「ときめきメモリアル2:陽ノ下光テレカ11枚セット+おまけテレカ 開始価格2,000,000円」みたいなものがぜったいに入手できないわけじゃない。でも“コード”の規制は、透過的に、でも意図的に、われわれがその世界に触れる方法そのものを規制し、本人にかならずしもそのつもりがないかもしれないにもかかわらず、ふるまいを為政者(サイバースペースにあって、そのアーキテクチャを決めるものは為政者に他ならない)の想定するそれに沿わせることができるわけだ。従来の素朴な「人間観」において、“コード”による規制は、こういうとあれだけど、「詐欺」にちかい。
■為政者が「自然」をある意図にそって「コーディング」すること。われわれが好むと好まざるとによらず、その「自然」のアーキテクチャに制限され、そうとは知らぬままふるまいが決定されること。ようやく話をもどすけど、宮本茂が考えているシステムは、こういった意味で、“コード”を強化する考えかたでもあると、僕は思う。しかもそれは、宮本さんの発言にアフォーダンス理論をみるのとおんなじ発想においてだと、僕は考える。じつはアフォーダンス理論というのは、「自然」と「人間」がきわめて素朴な形でありのままにあることを前提にしているはずだ。そしてその意味で、コンピュータゲームの世界は素朴な「自然」ではないし、プレイヤーも素朴な「人間」ではない。現在のコンピュータゲームにおいて、アフォーダンス理論に見られるような「自然な」ふるまいをプレイヤーにプレイさせようとするとき、それは“コード”による支配を一歩進めることにもなっている、のじゃないだろうか。
■そして、こんなふうに考えたうえで、僕は宮本茂の言う「大きな可能性」を大きな可能性として信じていきたい、と思うのだった。コンピュータゲームのインタラクションがわれわれの生理に関するある種の詐術であること。それがエンタテイメントである限りにおいてそれを「自然」と感じ、「自由」と感じてふるまうのであること。それを指して「コンピュータゲームをプレイする」というのだということ。宮本茂の言う「可能性」とは、そのようなコンピュータゲームのプレイグラウンドを広げるものであると、僕は考える。
一人の帽子売りが、大きな木の下に荷を置いて休んでいる。一匹の猿が、帽子売りの帽子を取って木へ逃げる。(…)
そこで帽子売りはしばらく考え、試してみる価値のあるひとつの方法を思いつく。商品の帽子をひとつ取り、それを自分の頭に乗せてみるのである。木の上の猿も、なるほど帽子とはそうするものかと考えて、帽子を頭に乗せてみる。次に帽子屋はそれを脱いで地面に思い切り叩きつける。帽子をそのように取り扱うやり方もないとは言えない。もちろん、木の上の猿も、そうしてみる。そうしなければいけないものかもしれないからだ。
つまりそのようにして、帽子屋はその帽子を無事取り戻すことができた。(…)もしこの帽子が、もともと猿の所有するものであるとしたら、その時彼の行為は《詐欺》ということになる。言ってみればこの猿は「自分ではまったくその気がないにもかかわらず」「自分の意志で」帽子屋に帽子を渡してしまっているからであり、《詐欺》が成立するためのもっとも特徴的な条件は、まさしくそこにあるからである。
別役実 『犯罪症候群』