feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン release : 3.25/2000|update : 3.25/2000 |
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それから からだを かわかすとこのセリフ、完成度がすごく高い。このセリフのあと、絵本はあと一見開きしかない。ないことは、手でわかる。本を支えている手がすでに気づいている。(…)こういう感じ、実に絵本的だと思う。ああ、この絵本ももうすぐおしまいだ、という時に、
とうさんが うさこちゃんに いいました。
「もっと あそんでいたいけど
もう かえらなくちゃ ならないな」
もう かえらなくちゃ ならないなうまいなあ、って思う。もうこの本も終わるんだよね。(…)五味太郎・小野明「絵本をほんでみる」(平凡社ライブラリー)より■例によって思いつきなんだけど、絵本を読む小さな読者と、コンピュータゲームをプレイするプレイヤーというのは、どこかしら似ているのではないか、と思う。コンピュータゲームのプレイヤーというのは、なにかにつけ落ち着きがなくて、かと思えば興味を引くものに出会うと同じことを飽きるまで繰り返していることができるような、絵本の読者と同じくらい「真剣」な人たちのことなのじゃないか。そしてその意味で、絵本に求められるものとコンピュータゲームに求められるものを、もしかしたら同じように考えることができるのかもしれない。
■というわけで、いきなりなにを引用したかというと、五味太郎・小野明「絵本をよんでみる」という本の一節。ご存知ディック・ブルーナの絵本「うさこちゃんとうみ」のおわりのあたりを、五味太郎氏が解説しているわけだけど、ここで五味太郎が言おうとしていることは、絵本の、コンピュータゲームでいわゆるところの「インタラクティヴ」なありかたについて説明しているように思うのだった。「インタラクティヴ」な「絵本」なんていうとどうも陳腐なものしか連想されなくていけないけど、もちろん僕がここでいいたいのは「読者がページをめくっていくんだから絵本もインタラクティヴなメディアだ」とかみたいな貧弱なアナロジーではない。「インタラクティヴ」というのは、たぶんそんな一義的なものじゃないのだ。
■たとえば、絵本と呼ばれるもので一番「インタラクティヴ」なのは、その明示的なページ数の少なさじゃないかと思うのだ。絵本の読者は、そのおはなしが「どれくらい」なのかについて、あらかじめ知っている。五味太郎いわく「手が気付いている」。優れた絵本は、そういう「絵本の読者が知っていること」について知っていて、それを1ページづつ確認するようにおはなしを進めるのだと思う。そうでないと、絵本の読者のような「真剣」な人たちは、さっそく興味を失ってしまうんだろう。「あらかじめ知っていること」を、「ひとつづつ確認すること」。「インタラクティヴ」というのはこういうものだと僕は思う。
■コンピュータゲームでもおそらく同じことなんではないか。幸か不幸かゲーム機はコントローラが標準装備なので、それを触ることが「インタラクティヴ」だという話になりがちだけど、たぶんそうじゃない。あるオブジェクトが操作可能であることが「インタラクティヴ」なのじゃなくて、そのオブジェクトに関する制限(そのオブジェクトによって何がどこからどこまで操作可能なのか)が明示的であることこそが「インタラクティヴ」なんじゃないか。たとえば僕の考えだと、どこまで回るかわからないダイヤルを回すことは、たとえ自分の操作だとしてもそれは「インタラクティヴ」じゃない。あらかじめどこまで回るか知っているダイヤルを回す(調節する)ことが「インタラクティヴ」なのだと考える。さらに言えば、それが「あらかじめどこまで回るか知っている」限り、それを「自分で回すこと」そのものはさほど重要ではないのかもしれない(この最後のはコンピュータゲームを否定する考えかたかもしれない)。
■コンピュータゲームのプレイヤーは絵本の読者と同じくらい「真剣」なので、「インタラクティヴ」ではないゲームにはすぐに退屈してしまう(でもそれ以上にオトナだったりするので、もったいないので退屈でも一回クリアするまではプレイを続けたりもする)。当然ながらゲームが「インタラクティヴなメディア」なのではなく、優れた絵本がそうであるように優れたゲームが優れて「インタラクティヴ」であるに過ぎないということは、プレイヤーの「手が気付いている」はずなのだ。