feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン update : 5.16/1999 |
■豊橋のとある素敵なゲーセンに50インチモニタ筐体に入ったR-TYPEが置いてあって、ところがどうも誰かがプレイしているという風景を見かけないので(それがこのゲーセンの素敵なところでもあるのですが)、折角の50インチR-TYPEに風景を提供すべく、というよりはまあ好きなゲームなんで行くたびにプレイしてみたりする。とはいえゲームのへたくそな僕なのでSTAGE-6あたりでゲームオーバーになったり、それでもネームエントリーでは1位だったり、という具合。50インチR-TYPEにはまるでふさわしくないわけで。
■さて、最近プレイしているからといってR-TYPEという言わずと知れた傑作シューティングに何か言おうというのもどうかとは思うのだけど、いまさらながらあらためてプレイしてみると、R-TYPEというゲームのデザインが他のゲームにくらべてやっぱり「ちょっと違う」ように感じられたので、そのあたりについて書いてみたい。先に言ってしまえばその「ちょっと違う」ゲームは、考え方の「おおきな違い」から生まれたんじゃないか、とかそんなことを思ったのだ。
■たとえば、R-TYPEというゲームはタイトル画面からして「ちょっと違う」ように感じる。別にそうだからといって非難するわけじゃないんだけど、過去を通じてたいていのゲームにおける「タイトル画面のデザインの方法」は「看板」のそれだ、と言えると思う。文字やタイトルロゴを中央にそろえて上から下へ。左右の対応関係は希薄で、画面における「余白」とか「空間」という考え方は、ほぼない。繰り返すけど、「それがよくない」と言いたいわけじゃなくて、そんな中でR-TYPEのタイトル画面が「ちょっと違う」んじゃないかという話だ。
■R-TYPEのタイトル画面は「看板」に対して言うなら「ポスター」のデザインに近いんじゃないか、と僕は思うのだった。実際にR-TYPEのタイトル画面を思い出してもらえるとよいわけだけど、それはシンメトリックにあらかじめ決定された「看板」のようなデザインではなく、モニタを一枚の紙に見立てて、なにをどう配置するのが効果的なのかが計算されているようなデザインになっている。そしてここからさらに言おうとするわけだが、このようなデザインの方法がゲーム全般を通じて行われているところがR-TYPEの「ちょっと違う」ところなのではないか、と僕は見る。ただタイトル画面だとか、ただ個々のグラフィックの善し悪しだとかにとどまる話ではなく、あらゆるものが、「対画面効果」の計算に基づいてデザインされているように感じるのだった。
■ゲームの「画面」がデザインされている、ということ。それはそのステージの世界設定がデザインされていたり、ステージのマップやキャラ配置がデザインされていたり、というのとは微妙に違う。あくまで画面に表示されるグラフィックのレベルで、「プレイヤーがゲームで何をどう見たいか(したいか)」がデザインされているということだ。当然、それは設定のデザインやシステムのデザインと調和されなければならない。R-TYPEは、この「画面」のデザインを他のデザインを破綻させないまま高いレベルで実現しているゲームだと考えることができるのではないだろうか。まるで鳥の連隊のような「適度なばらつきかた」で飛んでくるSTAGE-1冒頭の敵キャラ(ネームエントリーでの「リプライズ」が涙を誘うくらいに美しい)。STAGE-2ではインスルーが登場するとそれがのたうつのを見せるためのごとくシーンは静まり返り、クライマックスのボスへと誘う。そして極めつけは敵が画面に「絵を描く」STAGE-4。
■そのように考えると、たとえば「反射レーザー」とか、STAGE-3の「超巨大ボス」とかがどのように発想されたのかがよくわかる。それらはその実用性だとか、新規性はもちろんながら、それ以上に「画面に必要」だったから採用されたはずだ。他のボスにしても、あるいはザコキャラのそれぞれにしても、そこには一般に言われる「ゲームデザイン」以上のことが計算されている。「画面で何がどう行われればよりゲームなのか」が深く考えられている、そして本来、それも含めての「ゲームデザイン」であるべきなんじゃないか。ここに考え方の「おおきな違い」が存在するように思う。
■ある時期のアイレムのゲーム、たとえば「イメージファイト」とか「最後の忍道」といったゲームは、このようなデザインが徹底されているように感じる。僕は詳しくないので知らないけど、共通したスタッフがいるのではないかと推測している。そして本来なら彼ら(彼女ら)は、その「『画面』をデザインする方法論」においてもっと注目されてしかるべきだったんじゃないかと思うのだが。