feedback traces from videogame playing シ ン ク ル ー チ ン update : 5.9/1999 |
■ゲームにおけるシナリオとかテキスト、といったものを問題にしようとすると、とりあえず思い出されるのが僕の場合MOTHER2のシナリオのことだ。もちろんこの場合、MOTHER2のシナリオに関してあれは良かったなあ、といった素朴な感想だけではなく、MOTHER2のシナリオの不気味さ、というか、どうしてMOTHER2はMOTHER2のまま世の中に受け入れられているのだろう、といったわりと複雑な疑問を解消できないで抱いているからだ。
■さて。既にプレイしたことあるかたには蛇足になり、まだプレイしたことないかたには野暮になるのだけど、若干の説明を挿し挟めば、ここでいう「MOTHER2のシナリオ」とは、つまりこのようなものだ。MOTHER2におけるわれわれであるところの主人公とその仲間たちは、とある街を越えて冒険の舞台を広げようとするが、唯一の通り道がなぜか「タコのような物体」によって阻まれており先に進むことができない。行き場を失った主人公たちが街を散策していると、気さくな「発明家」に出会う。彼はかかって来た電話を受けることしかできない「受信電話」を主人公たちに預け、面白い発明をしたら連絡するから、といって去る。特に気にもせず主人公たちが別のところで冒険を続けていると、突然発明家から電話がかかってくる。「何の役に立つかわからないが、タコのような物体を消滅させることができる『タコ消しマシン』というものを発明したから欲しければあげるよ」といった内容だ。かくして主人公たちは「タコ消しマシン」によって道を阻むタコを消滅させ、次の街へと歩を進めることになる。
■以上は用語も含めて間違いなくMOTHER2において展開されるシナリオの一節なのだけど、これ以上の野暮を避けるため、このようなシナリオを一般にどう言うか、といったことを解説するつもりはない。そして個人的には、このようなシナリオの形式が問題だと考えるわけでもない。ゲーム(RPG)のシナリオというのは本来的にこのようなものではないかと僕は考える。
■しかし、「タコのような物体」が「鍵のかかった門」であり、「タコ消しマシン」が「門の鍵」であり、「発明家」が「鍵の持ち主(あるいは鍵の入った宝箱)」であっても何の問題もなかったであろうそれが、一般にそのように問われなかったことにむしろ割り切れないものを感じるのだった。つまり原理的には同じものであったとしても、同じものだからこそ、他のシナリオとMOTHER2のような形でのシナリオを区別する必要を「誰も感じなかった」ことが不思議に思える。ゲームのシナリオというのは、MOTHER2のようなものであったとしてもどうやら「誰も困らない」のだ。
■こういう話をすると、少なからぬ人からのたとえば「いや、MOTHER2というのはそういうゲーム(世界)だから」といった意見をいただくのが目に見えているといえば目に見えている。だがしかし。「そういうゲーム」というのは一体何のことだろう? そしてなぜそれは許されているんだろう? 少なくとも、僕の知る限り、「そういうゲーム」というのはMOTHER2を置いて他に、ない。
■ゲーム(RPG)のシナリオは「そういうゲーム」の不在によって保証されていたのではないか。他のゲームが「そういうゲーム」であることはないのか。あるいは、「そういうゲーム」でないゲームが「そういうゲーム」であってはいけなかったのか。MOTHER2を「そういうゲーム」ということにして許容することは、他のあらゆるゲームの判断をいったん保留しなければならないことにほかならない。
■というわけでもうずいぶん前の話になるんだけど、MOTHER2というゲームで糸井重里という人はずいぶんいろんなものを壊していたんじゃないかなと、僕はいまだに思っているのだ。