■先日、メディアアートのえらいひと、岩井俊雄さんのプレゼンテーションとティーチイン(質疑応答)に参加する機会があった。というか、そのために会場に赴いたというのが正確ですかね。
■岩井俊雄さんの作品はその正しさというか、あるいは美しさというかにおいてまったくもって文句のつけようがなくて、その点への尊敬も含めてただのファンである僕は会場の作品展示やら岩井さん本人による作品のプレゼンテーションやらをもう必要以上に楽しんだうえティーチインにも参加したんだけど、シンプルかつ正しすぎる氏の作品やらスタンスやらに適切な質問なんか浮かばないよな。浮かばないんですよ。でもただのファンとしても質問をぶつけてみたかった僕は、「岩井さんのメディアアートは、ゲームとは違うんでしょうか」て感じのかなりわざとらしい質問をした。
■もちろんそんな簡潔に失礼な質問ができるわけはなく、そこは持ちまえのシドロモドロをいかんなく発揮しつつ「岩井さんの作品はどれも、なんというかちょっとゲームっぽいというところがあって、もちろん御自身でもゲームをプロデュースされていたりするんですが、『Man-Machine-TV』なんかは特に、そのままルールをちょっと増やすだけでゲームになっちゃうと思うんです。そのへんに関して、あえてそうなるのを避けてるとか、そういうことがあるのか、あるいはどこまでがアートでどこまでがゲームかということについて、何というか…」とかだらだら喋っているところで岩井さんに「わかります、わかります」と<わかられてしまう>ことで質問として成立することになる。情けないな。
■そして自分でも「わざとらしい」と思ったとおり、その回答も正しいというか、あえていえば予想できたものだった。つまり、そこでいう「ゲームっぽさ」は使っているハードの性能の低さから連想されるものも大きいだろうということ。ゲームに興味はあるしアイデアを得たりもするが「ゲームにすることで、一番言いたいことがわかりにくくなる」という意味で、それをゲームにするつもりはない、といったものだ。言うまでもなく僕だって岩井さんの作品をゲームにしてほしいわけではないし、かといって岩井さんの作品に感じる「ゲームっぽさ」はハードがMSXとかAMIGAだからだ、というわけでもないとも思っている。
■つまり、岩井俊雄さんが作品にしてメディアアートと呼んでいるそれを、僕としては「コンピュータゲーム」と呼んでみたいというだけのことなのだった。岩井さんが「一番言いたいこと」といったそれは、作品によって示される「言わなくてもわかる」なにかなのであって、それは僕が考える「ゲームらしさ」と、ほぼ同じだ。「『コンピュータゲーム』といった場合の『ゲーム』は便宜的にそう呼んでるだけであって、より広義には例えばメディアアートと呼ぶべきものだ」という意見はもっともだとは思うのだが、コンピュータゲームによって拡張された感覚をなぜコンピュータゲームと呼んじゃいけないんだとか開きなおりたい僕だぜ。岩井さんの作品とゲームがなにか違うとしたら、それはたぶん設定される「観客」の人数で、岩井さんの作品には「できる限り多くの人間を同時に、しかもすぐに楽しませる」といった命題も掲げられているのだと思う。一方ゲームは、対峙するであろう一人のプレイヤーにサービスするために、システムもルールも物語も、つまり「世界」を提供しなければならない、のかもしれない。
■とかなんとか、やっぱ質問しなくてもよかったなあ、もっといい質問なかったもんかなあ、とか後悔している間に、隣に座っていた友達(クモデ)が「ほか弁屋の店頭で買うお茶と自動販売機に関するインタラクティヴィティについて」の質問をして場内を沸かせ、それでティーチインは時間いっぱいになり、その後ただのファンとして本にサインをもらったりしつつ、ホクホクで帰ったのだった。