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サ ン ド ボ ッ ク ス
updete : 10.17/1998

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#readme 「制御するエンターテイメント」について


■僕が常々見たい触りたいと思い、それがないのなら創ってしまいたいなと考え、実際このページで稚拙なのを公開しているようなものを一言で定義するなら、それは「制御するエンターテイメント」とでも言うべきものであり、そしてそれは僕がコンピュータゲームとしてのコンピュータゲームあえて望むものでもあります。

■まず、コンピュータゲームに関して言えば、あの「インタラクティヴ」という言いくちで、ゲームについて何かいった気になれるのが不思議でしようがないのですよ。言うまでもないにもかかわらず解説しますが、重要なのは「インタラクション」であって「『インタラクティヴ』であること」ではないのです。「ボタンを押すとジャンプする」ことより「どうジャンプするのか」のほうがより重要ではないですか。なぜって、本来「ボタンを押さなくてもジャンプできる」のが理想なのですから。「インタラクティヴ」という言いくちはこの部分を完全に転倒しており、この名を冠した「ゲーム」などは倒錯のなせるわざと言えるでしょう。

■映画にコントローラをつけたって「映画のようなゲーム」にはなりません。本来考えるべきは、どのようなインタラクションを与えれば自分が意のままに操っている気分になるのか、つまりどうすれば「プレイ感覚」が得られるのか、です。極端な話、「プレイ感覚」が得られるのならコントローラは必要ないのです。

■そして「制御するエンターテイメント」という考え方はここから立ち上がったものです。ゲームの「プレイ」を、なにからなにまでプレイヤーに指示させる「操作」ではなく、最低限の入力からプレイヤーが行いたい行動を再現する「制御」ととらえること。プレイヤーに、自分が高度なアクションを行っていると「錯覚」させること。いたずらに複雑にしたり難しくしないままゲームを豊かにするためには、このような観点からしか考えることはできないように思います(そもそも、ゲームにおける優れた「表現」というものは、常にそのようなものだったはずです)。「制御するエンターテイメント」とは、コンピュータゲームにおけるその「プレイ感覚」をより広義に解釈したものであり、ゲームにおける「表現」をそれのみで自立させたようなものです。いわゆるところの「ゲーム性」はなく、それはもはや現在いうところの「ゲーム」とはかけ離れたものだといえます。

■僕が常々見たい触りたいと思い、それがないのなら創ってしまいたいなと考え、実際このページで稚拙なのを公開している「制御するエンターテイメント」は、そういった意味で私にとってのゲームの習作です。ふつうこういうものを「ゲーム」とは呼びませんが、その「プレイ」から受ける感覚が「ゲーム」に似ているといいな、と考えます。「ゲームみたいなルール」ではなくて「ゲームみたいなプレイ」から「ゲーム」が抽出できるのかもしれない、と僕は信じます。

















注釈や余談
コンピュータゲームとしてのコンピュータゲーム
対戦ゲームとかネットワークゲームとか、どうやら最近は 「やっぱり人間がおもしろい」てなことになってるようですけど、 理屈から言うと「それならコンピュータ相手ならもっとおもしろい」 はずではないですか。だって、コンピュータって人間がつくった一番ヘン なものですよ!
コンピュータゲームっていうのは本来一人ゲームのことを指すと思っています。
あえて望む
たとえば「駆け引き」とか「達成感」とか「感動」といったものは やはりそれなりにゲームに必要なものだとは思うのですけど、 それらはコンピュータゲームに「あえて望む」ものでもないとは 思いませんか。そりゃもちろんスリリングな「駆け引き」や、心地よい 「達成感」や、熱い「感動」があるゲームは私だって好みますが。
ボタンを押さなくてもジャンプできる
「ボタンを押すこと」そのものに一種の快感があることは知っています。 しかし、だったらなおのこと、「ボタンを押すこと」と「ジャンプすること」 はべつべつに考えなくてはならないのではないですか。
映画のようなゲーム
ふつう、「映画のような」という形容は「美しい予定調和」とでも 呼ぶべき展開を指して言います。ですから、「映画のようなゲーム」 というのは、映画っぽい世界で主人公を自由にに動かせる ようなものではなく、「われわれがプレイしているにもかかわらず、 映画のようにうまくいく(または、うまくいかない)ゲーム」のことです。
「プレイ感覚」が得られるのならコントローラは必要ない
F1の車載カメラの映像とか、ある種のCGムービーとか、 あるいはゲームのリプレイとか、自分がコントロールしなくても 「プレイ感覚」に近いものを感じる例は挙げればきりがありません。 すぐ飽きるのがゲームとの違いかもしれませんが、 単に程度問題のような気もします。
制御
一般的な意味とは違うかもしれませんが、 私の文にはよくあることなのでこれを機会に覚えておいてください。
錯覚
「錯覚」というと聞こえが悪いですけど、 二つのボタンが付いたレバー2本で手足のあるロボットが動かせるはず ないんですから、それで一瞬でも「ロボットを動かしている」と思える のなら、やっぱり「だまされてる」んですよ。
ゲームの習作
それがおもしろいかはともかく、一般的な意味で「ゲームにする」ことはできるかもしれません。でも個人的には、そういうものが作りたいわけではないので。


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