■僕が常々見たい触りたいと思い、それがないのなら創ってしまいたいなと考え、実際このページで稚拙なのを公開しているようなものを一言で定義するなら、それは「制御するエンターテイメント」とでも言うべきものであり、そしてそれは僕がコンピュータゲームとしてのコンピュータゲームにあえて望むものでもあります。
■まず、コンピュータゲームに関して言えば、あの「インタラクティヴ」という言いくちで、ゲームについて何かいった気になれるのが不思議でしようがないのですよ。言うまでもないにもかかわらず解説しますが、重要なのは「インタラクション」であって「『インタラクティヴ』であること」ではないのです。「ボタンを押すとジャンプする」ことより「どうジャンプするのか」のほうがより重要ではないですか。なぜって、本来「ボタンを押さなくてもジャンプできる」のが理想なのですから。「インタラクティヴ」という言いくちはこの部分を完全に転倒しており、この名を冠した「ゲーム」などは倒錯のなせるわざと言えるでしょう。
■映画にコントローラをつけたって「映画のようなゲーム」にはなりません。本来考えるべきは、どのようなインタラクションを与えれば自分が意のままに操っている気分になるのか、つまりどうすれば「プレイ感覚」が得られるのか、です。極端な話、「プレイ感覚」が得られるのならコントローラは必要ないのです。
■そして「制御するエンターテイメント」という考え方はここから立ち上がったものです。ゲームの「プレイ」を、なにからなにまでプレイヤーに指示させる「操作」ではなく、最低限の入力からプレイヤーが行いたい行動を再現する「制御」ととらえること。プレイヤーに、自分が高度なアクションを行っていると「錯覚」させること。いたずらに複雑にしたり難しくしないままゲームを豊かにするためには、このような観点からしか考えることはできないように思います(そもそも、ゲームにおける優れた「表現」というものは、常にそのようなものだったはずです)。「制御するエンターテイメント」とは、コンピュータゲームにおけるその「プレイ感覚」をより広義に解釈したものであり、ゲームにおける「表現」をそれのみで自立させたようなものです。いわゆるところの「ゲーム性」はなく、それはもはや現在いうところの「ゲーム」とはかけ離れたものだといえます。
■僕が常々見たい触りたいと思い、それがないのなら創ってしまいたいなと考え、実際このページで稚拙なのを公開している「制御するエンターテイメント」は、そういった意味で私にとってのゲームの習作です。ふつうこういうものを「ゲーム」とは呼びませんが、その「プレイ」から受ける感覚が「ゲーム」に似ているといいな、と考えます。「ゲームみたいなルール」ではなくて「ゲームみたいなプレイ」から「ゲーム」が抽出できるのかもしれない、と僕は信じます。