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たとえばこんな
No.271 by 矢本広 [ppp-034.tky.exa.co.jp] at 2000/1/11(火) 18:45

http://www.hyperware.co.jp/software/heian/default.htm

上のURLに平安京エイリアンのWin版があったので、久々にプレイしてみました。んで、ここんところの話題に絡めて思ったところを少し。

前々から気になっていたのですが、このエイリアンの動きはいったい何なんでしょうか。プレイヤーキャラの検非違使を追いかけようとしているようでもあり、無視しているようでもある。あるいはそれぞれの行動がある程度ずつに選択されているようにもうかがえますが。

いずれにせよ、たとえばロムイメージを解析して云々…なんてことを立場上、想像も実行も出来ぬプレイヤーからは、完全なことは言えなせんわな。運の要素のあるなしという制御の実態とはまったく関係のないところで、このゲームは素直に見取れば「まったくの競争」と思えるし、少々の疑いを挟んだにしても「運の皮衣も持ち合わせている競争」であろうし、擦れっからしの感性をもってすら「競争っぽい運」と意地悪く捉えるのが関の山です。「まったくの運」(純粋なランダム)と理性的に見なすことは、僕達がいったんこれを「ゲーム」として迎え入れ、ましてやまさに「競技」としてプレイしている時点となっては隊長!不可能であります(イリンクス?)。

だからこそ、プレイヤーにとってこのエイリアンの動きはあくまで神秘でありつづけるし、その神秘こそが「平安京エイリアン」というゲームの面白さにつながり得るのでしょう。というか、そこんところなくしては「平安京エイリアン」という種類の「面白さ」が成立しない気もします。


No.273 by dotimpact [recoom] at 2000/1/11(火) 19:06

逆にパターンであることを強調して、プレイヤーを挑発するゲームもありますが。

とか言いだすと「パターンゲーム」と「乱数的ゲーム」というような、すでにある話と変わらないようですが、そうではないわけですね。少なくともゲーム自身は「このゲームはパターンゲームです」とはヒトコトも言いません。「これはパターンだ」とみなすのはあくまでプレイヤーでしかないんですな。「このゲームは乱数性があるからパターンにはめられない」とかいうのはよくも悪くもプレイヤーの主観的な意見だと僕は思います。

ところで行動ルーチンといえばパックマンですけど、僕には未だにあのゲームはとても難しくて(おもしろいという意味で)、例のお猿さんが攻略したという話は由由しき事態だと認識しております。


No.275 by 矢本広 [ppp-015.tky.exa.co.jp] at 2000/1/11(火) 22:18

知りたい前にちと。

たとえぱ脱衣しなくていいリアル麻雀にしても、「赤の他人に当たられないようにわざと仲間に振り込み続ける」といったカモり(疎外とも言う)のテクニックがあるわけですよ。

こういう邪な知識を出発点として、「どうせどこでも誰でも似たようなことは考えていたんじゃないの〜」とばかりにあらゆる伝統的遊びにおいてなされてきただろう暗黙の仕込みの様相を類推していくと、コンピュータゲームだけが理念系の中間領域を肥大化させたとは、いまいち思いにくいんだけれども。どうなんですかこれ。

次。「パックマン危機」について。

攻略されてしまったという事実そのものを憂えるところまでは右に同じですが、その攻略とやらを見世物として楽しみたい気も一方ではあります。んなもの覚える気のない当方としては、プレイの現場レベルでの危機意識はまるきしありませんし。とっととinpファイル作れやビリー(星条旗ネクタイが本体)。


No.276 by dotimpact [recoom] at 2000/1/11(火) 23:15

ペースが早いですな。

とりあえず矢本さん向け>

むしろ、実際はそういうのこそがゲームですよね。気の置けない相手とサシで(あるいはメンツで)ゲームをする時、自分の思惑というのは常にルールを超えてあるし、相手の思惑もそのように推察することになる。まずはコンピュータゲームをそのくらい「ふつうのゲームと同じように」考えたい、というのがあります。

そして、コンピュータゲームにおいてあるべきセメギアイというのは、コンピュータとプレイヤーが向かいあっているような、連想しやすい関係だけではないだろうと僕は考えるわけです。そういう、テーブルゲームのそれともTRPGのそれとも違う形の「コンピュータゲームというものの実際」というのがありはしないだろうかと考えています。

中川さん向け>

実際のところはともかく、結局ゲームはそれぞれのプレイヤーの思うところでしか進行しないんだから(どこかで「ズル」が判明すればそれはノー・ゲームでしょう)、既存の分類が意味を失うとは思いませんが。


No.277 by 矢本広 [210.196.129.226] at 2000/1/11(火) 23:23

補足。

つまり僕は、伝統ゲームの「ズル」とコンビュータゲームの「ズル」との間に、まだハード特性上の違い以外の差異を見出してはおらず、そのうえハード特性上の違いにも理念系をゆるがすほどの大きな差異と取れるものを発見できていない、つーことです。


No.278 by 矢本広 [tky277.tky.3web.ne.jp] at 2000/1/11(火) 23:49

…って書いてたら早々とレス。田中さんどうも。そして同感。



No.280 by 中川大地 [tiger.yamanashi-med.ac.jp] at 2000/1/12(水) 18:56

 うーん。「理念型の凋落」と云ったのはレトリックの勇み足として。

 伝統ゲームにおける仲間フリコミのような「ズル」をも包摂したところにコンピュータゲームとプレイヤーの関係の実際があるんではないかということをどう理解し、そのヒミツをさぐるってお題のうえで、既存枠組みの合わせ技をまずやってみたところ、おふたりの反応だとそれでもまだオサマリのわるいところがあるみたいだったから、理念型の性能自体を疑ってみたという流れだったんですが。

 要はそういう「コンピュータゲームの実際」の理解は、別の角度から補完しうるんじゃないかという話なんですけどね。

 コンピュータゲームの伝統ゲームに(あまり)ない特徴は何かというと、プレイ体験のありかた自体がパッケージ供給される「作家」の被造物としての性質にかなり強く依存していて、つまり表現物の鑑賞という要素が、どんなプリミティブな「ゲーム性」むきだしのゲームにもあると思うのですよ。

 パックマンの例を考えてみても、見立ての鑑賞的キャッチーさの向上が、ゲームとしてのわかりやすさと不可分に結びついてたところがあったわけで。そういう「ハード特性の特異性」はありはしなかったか。

 伝統ゲームやTRPGと重なりつつも、さらに違ったコンピュータゲームの実際があるとするなら、以上に述べたような事情が絡んでるのじゃないでしょうかという提案です。
 どっちかというと、これはMCDさんが仰っていた開発者中心的な発想の枠組みに入るのかもしれませんけど。


No.283 by GiGi [friday.aichi-u.ac.jp] at 2000/1/14(金) 12:07

 コンピュータゲームのズルに関して思った事を少々。

 身も蓋もない言い方ですが、コンピュータゲームはどこまでいってもルールの固まりでしかないんでしょう。コンピュータゲームにおいてズルが発生するのはつまる所、コンピュータゲームの持つルールの一部又は大部分がプレイヤーに未公開だからなんではないかと。

 でもって制作者が意図的に仕込むズルには2種類あるように感じます。一つは「プレイヤーを快適に遊ばせる為のズル」。つまり順位が下がると最高速が上がるレースゲームのようなルールですね。とはいえこれはズルというよりもあくまでバランス調整でしょう。目に見えますし。
目に見えるルールですし。もう一つは「ルールを省力化する為のズル」。つまり実際以上にコンピュータが複雑な動作をしているように見せかけるルールですな。そしてこっちのズルがコンピュータが時として人間的思惑を持っているかのように見せかけるズルなんだと思います。

 何故人はコンピュータの向こう側に人格を感じるのか、まとまった意見はないんですが、ズルという言葉を主観的にそのまま使うのにはちょっと違和感があります。どちらも「本来想定しているルールとのズレ」が生む感情であることは間違いないんですが。


No.284 by dotimpact [recoom] at 2000/1/14(金) 15:12

中川さん、GiGiさん、意見ありがとうございます。

忙しい時期にてまともなフォローができないので、後でまとめて書きたいです。

期待しないでお待ちください。もちろん話を進めてもらってもかまいませんよ。


No.286 by dotimpact [cs38120.ppp.infoweb.ne.jp] at 2000/1/22(土) 13:53

遅れました話のつづきです。興味も薄れてることかと思いますが。
(中川さんは別のトコで大忙しでかまってられないことかと思いますが)

■中川さん

相変わらずカイヨワの何たるかを知らないままなので大胆なことしか言えませんけど、「遊びの分類」あたりはゲームが「連続的で応答がリアルタイムにあるもの」であることが前提になっている気がします。で、それでいいのかはよくわかりません。極端な話、カイヨワはたまごっちを知らないとか、そういう話ですけど。

#ところで、ワンダーエッグのマスコットキャラの名前になってるのはどれとどれでしたっけ?

パッケージされたものとしてのコンピュータゲームというのはあると思いますが、話が文化寄りになってしまう気がして、ちょっと自分の興味からははずれてしまいます。

■GiGiさん

うーん、GiGiさんのおっしゃるのは僕の考える「開発者の立場」なんですね。開発者である限り、それはゲームを面白くするためのルールであったり単に開発の問題であったりするわけで、つまりそれらは「ズル」ではないわけです。そしていみじくもGiGiさんが言うようにそれでも僕が「主観的」に考えているのは、「開発者の立場」を信用してないからです(念のため言いますが「開発者を信用してない」のではありません)。どう信用してないのかは例の「プレイヤーv.s.開発者」の下りに書いたように、なのですが。

プレイヤーにとってコンピュータが「ズル」い、と言うとき、コンピュータが実際にズルをしていようがしていまいが、プレイヤーにとっては「そういうゲーム」であるということが根本的に「ズル」いわけです。「プレイヤーがプレイしている(と思っている)ゲーム」と、「コンピュータがコントロールしている(できうる)ゲーム」というのがかけ離れているかもしれない、という考えが何の役に立つかはいまのところわからないんですが、まあちょっとヘンな話ではないか、と思っているところなのです。