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ちょろちょろ書いてみます |
否定的側面。開発者であってもおもしろさはプレイヤーとしてしか確かめえないのはそうだとして、「順位が下がるほど最高速度が上がる」という「ズル」はどこからくるのか? ゲームマスターのたとえも同じ。「プレイヤーとゲームマスターがいるゲーム」をもコントロールできるのがコンピュータゲームなのだろう、というふうにコンピュータゲームを拡大していくよりも(否定神学的に読めます)、おもしろさとズルの(無)関係を明らかにした方がよいのではないか。あと、コンピュータゲームの擬人化は、修辞的なものにとどまっているのかどうか、というのも気になる。
肯定的側面。もはや何も信じなくなったようなわれわれが、コンピュータゲームをなぜか信頼している、という点をズバリ言い当てている。また、コンピュータゲームというものの実際、という言い方で、プレイヤーの信頼を「考慮してはいけない」というところまで、コンピュータゲームというものを突き詰めている。開発者を頂点とした言説(がいけないとは思いませんが)からは決して出てこない、優れて論理的なものだ。
わりと照準が定めにくいですな。実際には、「プレイヤー」と「コンピュータゲーム」の間にぼんやり浮びあがってくるもののことを言っているのではないかという気がしますが。さて。
No.267 by dotimpact [recoom] at 2000/1/10(月) 23:00感想ども。おもしろがってもらえると幸いです。
まず、コンピュータゲームの擬人化ですが。プレイヤーの立場からそう見倣せる、という意味以外では避けなければいけないと思ってはいます(そう書けてはいないでしょう)。イメージとしては、プレイヤーの立場でいったん擬人化したものから考えて、擬人化しえないものまで拡張できたりするといいような。
次。「プレイヤーとゲームマスターがいるゲーム」をもコントロールできるのがコンピュータゲーム、というのは、プレイヤーとゲームマスターという別の役割をもつ「プレイヤー」がいるコンピュータゲームに還元できるというような考えで、あんまり拡大はしてないです。
おもしろさとズルの(無)関係ですが、どちらにしろおもしろさそのものはまだあつかえないんだと思いますけど、ここでいうところの「ズル」というのの筋は通したいと思います。ここでいう「ズル」はルールではない。ルールがゲームのおもしろさを決定するのだとしたら、ここでいう「ズル」はそのようにはプレイヤーに干渉しない。いわば「ゲームをおもしろくする」のではなくて「プレイをおもしろくする」暗黙のルールがコンピュータゲームに想定できるんじゃないか、ということです。
「ズル」がどこからくるのか、というのは開発者とゲームの問題になっちゃうような気がします。で、それとプレイヤーとゲームの問題はべつべつに考えられるんじゃないかというのがそもそもの発想です。
気に食わない話はつっこんでください、今後とも。
No.281 by MCD [h080.p035.iij4u.or.jp] at 2000/1/12(水) 21:39奥へと進みたいだろうところを無理やり入り口付近で掴まえて付き合わせてしまった格好になりましたが。
私がおもしろいと思ったのは、プレイヤーの信頼を「考慮してはいけない」というところまで考えられている点です。むろんそのこと自体が面白いというよりは、「ズル」のように最低限の主体(言葉を借りるなら、プレイヤーの立場ですかね)を前提としている思考と、プレイヤーも開発者もコンピュータもいない「考慮してはいけない」のような原理的な思考が、混在しているからです。
ただ同時に、その混在には引っかかりも感じます。私だと「どちらかに決めるだろう」と思うからです。文章が明晰だけに、その使い分けが気になります。
あと、こいつは思いつきですが、開発者は退けるのではなく、トリックスターとして保持しておくと後々おもしろいのではないかと思います。