Backyard Bubbling Salon / Broken Bubble System フ ル ー ツ タ ー ゲ ッ ト dotimpact掲示板システム'99|powered by 『Web裏技』 |
(管理者:タイトル失念) |
シンクルーチン#11 シーケンシャル・コンシステンシーを読んで思ったことというか、
聞きたかったことを、書いて保存しておいたのですが、
ここに書き込むタイミングを逸して忘れてました。
いまさらかもしれませんが書き込みます。
この文章の要旨としては、マルチフラグとザッピングは違う、ということを主張したかったということでいいのかな?
私はマルチフラグメントシステムと名づけられてたのをよく知りませんでした。
街ではザッピングという用語を本来の意味とはやや異なる意味として使用していると思ったんですが。
マルチフラグと、狭義のザッピングシステムの両方がなければ、「街」のシステムの核である広義のザッピングシステムは成立せず、だから「街」は(広義の)ザッピングシステムのゲームであるといっていいと私は考えていました。
本来のザッピングシステムのゲームをやってみたいとのことですが、
それはどのようなものですか?
ゲーム内の時間が絶対的に流れていて、数台の固定カメラあるいは特定の人物を追う数台のカメラを脈絡なく自分の好きなように切り替えて見るだけのゲーム?
たぶん、本来の意味でのザッピングを可能にするには、異なるシナリオが同時進行して、その時間はシンクロしている必要があるんじゃないかと思うんですが。
(私は「街」の面白さは時と場所という縦軸と横軸を文字通り縦横無尽に移動することを要求するシステムなんだと思うのですが、それは広義のザッピングと呼んでいいと思います)
同時進行する、フラグによるロックがないゲームをやってみたい、とおっしゃっているようにも読めましたが(そんな単純なことではないかな?)、
それはザッピングの必然性がなくなるのではないでしょうか?
できるからやってみることは自由だけど、しなくてもいいというのであれば、それはザッピングのゲームではないような気がする。
ザッピングの必然性がなければたぶんそれはザッピングが存在する意味があまりないし、必然性があるならば、それはフラグによるロックとあまり差はないような気がします。
宝くじの話も、全員のシナリオを最初から最後までそれぞれ順々に見ていって、
あとで頭の中で宝くじの流れを思い出してもいいわけですよね。
それはそれで楽しめるとは思いますが、それはザッピングではないのでは。
>「原理的には『サウンドノベル』にマルチシナリオは必要ない」とする説を、僕はその意味で支持するものだ。
>極端な話、「分岐の選択」に「ゲーム」があるとは僕は考えません。
というのは、どういうことでしょうか。
「分岐の選択なしにゲームにする」には?
あ、そういえば、全部クリアした状態の「街」には、フラグによるロックはなくなってますよね。
最初からその状態ならOK??
No.221 by dotimpact [recoom] at 1999/11/13(土) 22:44すこし遅れました。
think-routineというのはゲームに関する「考え方」をひとつづつ試し書きしてるつもりのシリーズなんで、これは正解ではないだろうといつも思っていて、読んでの意見とか反論とかは常に聞きたいんでみなさんもよろしくお願いしたく、ともかく綾茂さんに感謝です。
前後しますがまず「サウンドノベルには原理的にマルチシナリオ(分岐)は必要ない」というのは、ほぼそのままの意味で考えていることで、つまりサウンドノベルというのは、「分岐によって展開が変わっていく」から「ゲーム」なのではないんではないか、ということです。
たとえば、僕の考えでは、どちらに進むべきなのか分からない道で「右か左か選べ」と選択を促され、右か左か選ぶことは「ゲーム」だと思えません。右と左それぞれの道で別の展開が待っているのかもしれませんし、その展開は結果的にはプレイヤーが選んだことになるのでしょうが、「プレイヤーはそんなことをしたいんじゃない」はずです。そうではなく、「右へ進め」と言われているプレイヤーが「右か左か選べ」という選択で右を選ぶこと、あるいは左を選ぶことが「ゲーム」なのだと、僕は考えます。
サウンドノベルがどういう「ゲーム」か、というのもこのような考えの延長にあります。サウンドノベルというのは、ストーリーの「いまここでの展開」(それはすでに用意されたシナリオでも、前回プレイした同じストーリーでもない)に、「疑似的に」参加する「ゲーム」ではないかと、僕は考えるんです。文章を進めるためのボタンやマウスクリックが、現実的にはストーリーを何も決定していなくても、サウンドノベルでは本とかテキストビュアで小説を読むのとは別のことがおこなわれているはずです。そこにおいて「ゲーム」なのではないでしょうか。
サウンドノベルがこのようなものだとして、そこにマルチシナリオや、そのための「分岐」を盛り込むことは、二次的な問題であるはずです。「多彩な展開」や「フラグ立て」が面白いかどうかは、サウンドノベルとは別のものとして考えたいと。そういうことです。
このようなサウンドノベルに対して、僕の考える「ザッピングのゲーム」はあります。並列するストーリーをプレイヤーがある「必然性」によってザッピングすることで、「いまここでの展開」を発生させることができる、そのような「ゲーム」を想定しているわけです。
綾茂さんの意見にもありますが、その「必然性」というのが「ある地点でのゲートに対するフラグ」である、というのが従来のゲームのありかたなんですけど、もしかしたらそれ以外の「必然性」があり得るかもしれない。あり得るとしてそのようなものが、サウンドノベルが発展した「ゲーム」としての「ザッピングのゲーム」だと、僕は考えています。
誤解される前に言っておくと、僕は別に「前衛的」なゲームじゃないとやだと言ってるわけじゃなくて、新しい「ゲーム」を妄想してるんです。これ以上言うと言い訳めくのにもかかわらず言いますと、そのような新しい「ゲーム」がこれまでの「ゲーム」よりも面白いことは、必ずしも保証されません。それはアクションゲームとサウンドノベルのどちらがより面白いかが決定できないのと同じようにです。
最後に「街」について。思うのは、「街」というゲームは、タイムチャートによって(既に読んだ部分なら)「任意のタイミングで任意の主人公の任意の時間にジャンプ」できるのに、「特定のタイミングで特定の主人公の特定の時間にジャンプ」する「必然性」があっただろうか、ということです。前者ではなく後者を、僕は「ザッピング」だと思うのです。
マルチフラグメントシステムとタイムチャートという構成は、そのような「ゲーム」としてまっとうで、じっさいそのように「街」は成功していると思いますが、文章中の「ZAP」ポイントから、プレイヤーに「ザッピング」させようという試みは、必ずしも成功していないと感じました。
えー、例によって解答になってないかもしれません。さらに疑問を増やしたりしてしまっていないことを祈りますが、何かあればまたお願いしますね。