update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2000 / Jul. |
7.3/2000 | ■ レイテンシ |
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◆いちおうexternal linksをちょっと修正しました。 |
▼いやそれにしても長らく書かなかったものですね。覗いてくださるかたには申し訳ない。dotimpactです。なんか名古屋と横浜を新幹線で行ったり来たりするような生活になってしまって、なかなか難儀なのです。ちなみに金曜帰りの新幹線でファミ通をじっくり読むようになりましたが。僕は「風のように永田のゲームの話をしよう」がいつのまにか「永田奏大のゲームを話をしよう」になってたのも知らなかった!
毎週じっくり読むんだからネタになるんではないかと思い、週刊ファミ通通信というコーナーを作ろうかと思ったんですが頓挫しました。
▼さて、もちろんミスタードリラー(GBC版)を買ってプレイしておりますよ。もちろんドリラーそのものはアーケードで数限りなくプレイしていたわけなんですけど、ゲームボーイでプレイしていたら「これはジョイスティックでプレイするゲームじゃなかったな」なんてことを思いました。
さらにタイトルの曲など聞いてますと、なんかこう「ファミリードリラー」でもよかったような気すらしてきました。
あと説明書のストーリーからは肝心の「これはもう」というくだりが省かれてました。残念(なのか)。
あとエキサイトバイク64も買いましたよ。あんまりプレイしてないんでくわしくはわかりませんが(思ったよりフレームレートが高かった)、とりあえず元祖エキサイトバイクが収録されていて(エミュレーションでしょうね)、しかもコースエディットのセーブができます。当時BASICとかテープレコーダーがなくてなんとなくくやしい思いを残していた方は気が晴れるやもしれませんね。
7.8/2000 | ■ 大学生と魔法使い |
▼コンビニの雑誌棚で「CDでーた」を、べつに読むでもなくめくっていましたら、近日発売CDとしてリーフのまじかる☆アンティークのサウンドトラックが極めて事務的に紹介されていました。それはこんな感じでした。
大学生と魔法使いが骨董店を経営するシミュレーションゲームの音楽集。(…)(文面は正確ではないと思います)
おそらくプレスシートにはもっといろんなことが書いてあったのだと思うのですが、CDでーたに言わせればこうなのでしょう。それにしても、「大学生と魔法使い」というフレーズのこの奇妙なリアリティは一体何でしょうか。そこには「人間と魔法使い」とか、「少年(少女)と魔法使い」とかとは、明らかに別の類のドラマがあってしかるべきではないですか。なんというかこう、ただれた禍禍しさを感じるフレーズなのですが、その「禍禍しさ」は、「魔法使い」よりも「大学生」のほうに強く感じられてなりません。
…いやもちろん、公式サイトの紹介を見ればそんなゲームでないのはわかりますけどね。
7.11/2000 | ■ シンクロナス |
更新情報 |
◆ゼルダの伝説 ムジュラの仮面という宝箱からようやく一つアイテム(?)を持ち出すことができました。think-routineに「#16 フォービドゥン・インターフェイス」追加。もちろん「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」に関するかなり危険なネタバレ(製造工場が操業停止になるくらい)を含むので、特に気にするかたはご注意ください。 |
▼さてさて、think-routineのほうでは、「『時間』によってプレイヤーは『何もしない』ことでも『世界』が変わっていくのを見ることができる」とかなんとかカッコイイことを書いてみましたが、一般にこういうのをなんと言うかというと、「タイムステップシミュレーション」と言うんではないでしょうか。革新的でないどころか、シミュレーション手法としてはダサいくらいではないですか。
7.13/2000 | ■ アナロジカル |
▼例によって唐突に書き込みをこちらにもメモしておきます。世界機械のBBSneuron noteへの書き込みでした。
>巷にあふれる哲学系、思想系の文書のほとんどは、その努力を
>放棄してるって印象があります。(偏見)
>正確な言葉が使われないので、常に余計な情報を含んで本質を
>とらえることができない。だから答えを出す力が限りなく低い。
ちょっと違う話ですが、僕はあの「たとえ話」というやつが苦手というか、それでかえってモノゴトがわかりにくくなっていることが多すぎるんじゃないかって思ってます。ネットの掲示板の議論なんかでよくあるのが、状況を「わかりやすく」説明するしようと誰かが「たとえ話」を持ち込むと、参加者がそのたとえ話のキャラクタやら状況やらを勝手に動かしてそれぞれがその人ごのみの「たとえ話」に変え始めて結局何をしてるんだかよくわかんなくなる、というような事態で、あれは見ていてきのどくになります。
…ちょっとどころかまったく関係ない話だったみたいですが、安易に「たとえ話」をはじめたりするのは「余計な情報を含んで本質をとらえることができない」典型的なケースではないかと。というかもっと言うと、そういう「たとえ話」が「RPG感覚」みたいになってるような気がしないでもないですね。「たとえ話」って本来そこにあるべき関係を「固定」するために呼び出すもののはずなんですが、なんかフィクションを「操作」するような感覚で書かれることが多いような気がします。
7.19/2000 | ■ ガンゲリオン |
▼夏休み映画の「ジュブナイル」を観てきましたよ。いろいろゆきとどいた心意気がうれしくて楽しい映画です。
この映画の劇中、古びた電気屋で独自理論を実証すべくひそかに研究する怪しい天才物理学者、という定石に則った人物(香取慎吾)が登場しまして、その天才氏はやはりフリーの天才科学者がそうであるべくして副業としてゲームプログラムの仕事をしており、はたせるかなあの超有名ゲームのプログラムに関わっているということで少年たちの羨望をいっせいに集めます(「ま、基礎プログラムだけ、なんだけどね…」なのです)。ここで映画はその超有名ゲームのさわりと思しき映像を2カットほどインサートするわけですが、一瞬しか映らない架空のそれが、実にいかにもディスク4枚組総プレイ時間50時間級の超大作RPGのムービーにしか見えなくて、僕はうれしくなってしまいました。
VFX担当プロダクション「白組」はファイナルファンタジーVIIとかのムービーも制作しているそうなので、まあそういうことなんでしょうね。
ところで僕が「あ、ナルホド」と思ったのは、インサートされたのが、「ゲームのムービー」だった、ということで、つまり今「こういうゲームがある」ということを示そうとするとき、ゲーム本編の映像ではなくてむしろ「ゲームのムービー」を見せるのが手っ取り早いらしいのです。おそらくですが、本編のプレイ画面をそのように示すと、われわれはそれが「ゲームである」ということにとどまらず、「それがどんなゲームなのか」ということに興味が向かってしまうんではないでしょうか。「ゲーム」というものをひとつかみに説明するのには、ゲームそのものよりも「ゲームのムービー」によってそれを示すほうが経済的なわけです。「ゲームのムービー」というやつはよくも悪くもゲームよりも「ゲームっぽい」ということですね。
「ゲーム画面が出てくる映画」といえば、たとえば「ノーライフキング」なんて意欲的な映画などがすぐさま思い出されるわけですけれども、それより前から気になっているのは、「マルサの女」だったと思いますが、スーパーマリオブラサーズのプレイ画面がかなり長い時間大写しになるカットがありまして、あれが一体どういった意図なのか僕にはよくわかりませんでした。監督も亡き今や真相は闇の中といえるのではないでしょうか。