update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ 2000 / Apr. May |
4.30/2000 | ■ コマンド・ディスクリプション |
▼ご無沙汰です。横浜に引っ越して来ましたdotimpactです。
新しい街のゲーセンには12周設定のレイブレーサーがあって気が利いてると思った次第です。
▼秋葉原LAOXにて(と、わざわざこのように書くのはこのソフトを扱う店がごく限られているからなのですが)エレクトリックシープの天国から来た男を入手しましたよ。登場人物の設定がプレイごとに自動生成されるという恋愛/人間関係シミュレーションのゲームです(オフィシャルサイトはこちら)。もちろんここで「シミュレーション」というのはコマンドでパラメータを増減させてフラグを立てるソレではなく、モデル化によって現実事象を再現しようとするソレで、このゲームに登場する人々はプレイヤーと同様に自律的に行動し、互いに会い、話をして、それがきっかけで感情が芽生えたり、芽生えなかったりします。いわば、ただ、それだけです。当然ながらあっと驚く展開やら涙を誘うエピソードのようなエクセントリックな事象がアドホックに実装されていたりもしません(ただ唯一、ゲームの終わりにはささやかなサービスが用意されています)。「それのどこが面白いのか」といった無粋な問いには「それを知るためにシミュレーションが必要なのだよ」と答えましょう。もとより、シミュレータは倒錯のための玩具なのです。
とかはまあともかく。天国から来た男というゲームで僕がより興味を持っていたもうひとつの特徴が、「ゲームのプレイが完全にテキストのみで表現される」というとこなんでした。天国から来た男のゲームウインドウは原稿用紙を模したものになっていまして、プレイによって小説風の文章が生成されていくのではないかと僕は期待したのですが実際にはそういうわけではなく、コマンドに対してある程度フォーマットに従って生成されたテキストが表示されるという感じになっていまして、そのあたりがちょっと残念でもあるのですが(とはいえ完全に自由なテキストが生成できたりはしないとも思いますが)、それでも「テキストしかないゲーム」というのはなかなか刺激的なんでないか、という気がしています。
なんというかこう、「プレイヤーがリクエストしたことのみが『描写』される」感覚が、悪くないなと思うのです。つまり、プレイヤーの意識において「描写」されないものはその意味で存在しない(そして、そのことがプレイヤーにもわかっている)世界。そもそも「描写」というのがそのようなものであることは推理小説のトリックに使われるくらい面白いネタであるので、そんなゲームがあってもよいのではないでしょうか。僕がすぐに連想したのはネットワークゲームで(というかたとえばこのゲームはプレイヤーを各キャラクタに対応させるだけで仕様をなにも変えなくてもネットワークゲームになるものだと思いますが)、自分がある場所にいるとき、自分が気づいていないだけで知らないものがあったり知らない人がいたりするのかもしれない、あるいはその知らない人は自分に気づいているのかもしれない、しかもそういうプレイヤーごとに「違う世界」が平然と「描写」されるようなゲーム。たとえば仮にまったく同じことができるとしても、ウルティマオンラインあたりとは「まったく違う」ゲームになると思うのですが。
まあ、気分としてはICQなんかを使っている感覚の話かもしれません。
ところで思ったのですが、サイバースペースにおける「密室」とか「不在証明」とかを扱った推理小説ってもうあるんでしょうか。ご存知のかたは教えてください。
5.12/2000 | ■ インターバル・タイマー |
更新情報 |
◆昔のfruits-targetのログをdry-fruitsに収めました。 |
▼「変更を反映させるには再起動が必要です。再起動しますか?」というのに少し似ています、今度のゼルダ。
さて、今回のゼルダ(ゼルダの伝説 ムジュラの仮面)をプレイしながらなんとなく考えているのは、コンピュータゲームというものがその世界に流れる「時間」というやつを、いつごろどうやって取り込んだんだったか、プレイヤーはそれにいつごろどうやって取り込まれたんだったか、というようなことです。つまり、それまでは今現在プレイヤーが操作できることだけを考えていればよかったゲームというものが、いつからか「時間が過ぎる」というようなプレイヤーが操作できないことについても考えなければならないものになった、ということではないかと僕は考えるのです。さらに書いておくと、しかもそれはおそらく「操作できること」と同じくらいゲームとして面白いことだった、ということだったのではないでしょうか。
いつごろどうやって、といっても資料とかもないので思いつきで考えているわけですが、たとえばドラクエIIIです。言うまでもないわけですがシリーズで初めて昼夜の区別が導入されたのがドラクエIIIです。これによってプレイヤーは全ての街や城を少なくとも2回は訪ねなければならなくなったり、「ぱふぱふ」によりそれらしい雰囲気を感じたりできるようになったりしたのですが、同様に進展の鍵を握る人物に「夜にもう一度来い」と言われたり、時を待って契機をうかがう、というような時刻にまつわるイベントが登場したわけです。このようなイベントでプレイヤーが何をしなければいけないかというと、ただ時間が過ぎるのを待つのであり、つまり「何もできない」のです。プレイヤーはどこかのほこらに何かを取りに行ったり、立ちふさがる悪漢を倒すとかいった明確で具体的な目的を失います。
さて、こういう時にたとえばプレイヤーとしての僕が何をしたかというと、城のグラフィックを構成する4ブロックのうちの上2ブロック、敵にエンカウントしない部分を右、左、右、左、という具合に歩くわけです。やはり言うまでもないと思うのですが、ドラクエIIIでは街の中にいる間は「時間」が経過せず、マップモードで決められた歩数歩くと昼から夜に、あるいは夜から昼へと「時間が過ぎた」ことになるのです。ですから先ほどの時刻イベントについてプレイヤーが「何もできない」というのはその意味でウソなのですけど、そういうことではなく、やはりそれは「何もしていなかった」ということなのではないでしょうか。
こういう、ゲームの中で「何もしていない」、というような瞬間について、われわれはもっと驚いてもよいのかもしれません。