update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ Feb. / 2000 |
2.3/2000 | ■ ねじれの位置 |
▼はい。例によって掲示板への書き込みをこちらにも置いておきます。GΛΜΙΛΝ’ BBSでの話題ですので興味があれば参加ください。
さて。「ゲームに日常を再現する」という意味でシェンムーとたけしの挑戦状が似ている、というのはおそらくそうではないかと僕も思います。でも、シェンムーとたけしの挑戦状それぞれの開発者が同じものを目指していたか、という点では僕は別の印象を持っています。便宜的に開発者をたけしと鈴木裕としますが(こういうときは代表者がいると便利ですね)、この二人が「まずゲームに日常を再現する」ことから表現しようとしたものは、むしろ逆なんじゃないかと思うんですね。
たけしの挑戦状は、確かに舞台やら設定を当時の他のゲームと比べても(現在ある標準的なゲームと比べても)「日常的」なものにしています。しかしそれはゲームに「日常性」を導入したかったから、でしょうか。まったくの想像ですけど、たけし(に限らず多くの人)がゲームに魅力を感じたとしたらそれは、「ゲームの中ならばまったく無責任にも行動できる」といったことではないでしょうか。たけしは「日常もほんとはゲームみたいなもんだ」と考えたのだと僕は思います。日常的なことからまったく非常識に話が展開したり、あるいは非常識なでたらめをしてみないと話が展開しないとか、そういう作りものっぽい「劇的」の演出として、舞台は「日常的」になり、「日常的」に行えることを多くできるようにしたのだろうと僕は思うのです。いわば「日常としてあるゲーム」。たけしに限って言えば、ここでの「ゲーム」は「映画」と言い換えることも可能かもしれません。
シェンムーはどうでしょうか。鈴木裕はおそらく、ゲームを作りながら、どうやったらゲームがゲームのままリアルで自由なものになるかを考え続けてきた人です。鈴木裕に限らず多くの人は、ゲームをプレイしながら「ああ、こういうこともできたらいいのに」とか、「ああ、先に進まないでここでプレイしてられたらいいのに」ということを思うわけです。ゲームのプレイに一種の「日常性」を求めるこのような考えが鈴木裕のコンセプトとしてあり、おそらくその限りにおいては設定が「日常的」でなくても、可能ならばムーンベースに住む宇宙人であってもかまわなかっただろうと僕は考えます。逆に言えば、だからこそ鈴木裕にとっては「80年代の横須賀」でなければならないのでしょう。「日常としてあるゲーム」に対して言うなら「ゲームとしてある日常」を表現しようとしていると言えるかもしれません。
たけしは鈴木裕が不自由だとしか感じていないところを「ゲーム」らしいと考え、一方鈴木裕はたけしが意味がないと感じているところを「ゲーム」に盛り込みたいと考え、その結果「たまたま」シェンムーとたけしの挑戦状は似ているのではないでしょうか。僕はそういうことだと思い、その意味でシェンムーとたけしの挑戦状は「まったく似ていない」と考えます。
2.5/2000 | ■ ポインティング・ディヴァイス |
▼ランドネット会員、いわゆる64DDユーザーというやつですが、その会員には「ランドネットFAN」という会誌というか、ちょっとしたプロモーション新聞が不定期に郵送されます。んで、今号(ちなみにまだ2号なんですけど)送られてきたその会誌に載ってました64で電子メールを書くソフトがなんだか素敵な感じなので、ここで触れたいと思います。他で知る機会がスゴク少なそうですし。
要は64の3Dスティックを使うソフトウェアキーボードなんですけど、いわゆるキーボード状に並んだ文字をカーソルで選択するんではなく、写真(見にくい)のように文字が円盤状に並んでいて、3Dスティックを倒した位置で文字を選択/確定するようなソフトのようです(まだ触ってないので詳しくはわかんないですけど、たぶん)。
ちょっと楽しそうでしょ。文中には「馴れれば『ソフトウェアキーボード史上最速』の入力が可能になります」なんて書いてあります。小学生がすごいスピードで文字を入力する様なんかが想像されます。このソフトが入ってるランドネットディスクは2月下旬に発送予定だそうなので、楽しみですな。
きっとハードモードでは画面の文字盤が消えて、3Dスティックの感覚だけで入力するのでしょう。
ところで個人的に前から思っているところですけど、こういう「アナログスティックを絶対座標系として使う操作」に興味があります。あれですね、アーケード版のスペースハリアーみたいな、スティックを倒した位置が、画面上の位置にマッピングしてある操作系。興味があるというのはもっとなんか驚くべき使いかたがあるんじゃないかと勝手に思っているという妄想ですが。