update info and daily memo ク ラ フ ト マ ン シ ッ プ Jan. / 2000 |
1.2/2000 | ■ タイム・エクステンション |
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◆なんか、タイトルの画像が変わりましたね。ちなみにポケ単のドットフォントですよ。 |
▼ネットワーク管理者が誤作動したらしくアナウンスされたネットワーク停止が起こらなかったりする新年です。おはようございます。
▼元旦からさっそくゲーセンを覗いたりしてます。えらく上手な人のクレイジータクシーのプレイをえんえん見ていました。あのゲーム、熟達した人のプレイスタイルはピンボールのそれに似てスマートですね。ある程度以上上手だとゲームがほとんど終わらないところも似てます。
ところで、僕はセガのLE MANS 24というゲームが好きでたまにプレイします。さほど話題にならなかったゲームなのでご存知ないかたもおられるかと思いますが、その名の通り24時間耐久(ゲーム内では1時間が1分くらいですが)レースをするゲームで、前の車を抜くとタイムが加算され、抜かれると減算されるという明快なルールが特徴です(その結果レースゲームには極めて珍しくコンティニュー制が敷かれています)。またルマンの醍醐味というところでは、走行中昼になったり夜になったり、予想外のアクシデントとして雨が降り出したり故障車が走行路をふさいだりといったフィーチャーがあるわけです。と、ここまで書いてきたところで日頃ゲームに親しんでいる方々ならば、このゲームについてお気づきのことがあるかと思います。宮沢章夫風に言えばこうです。
おそらくそうでしょう。このようなゲームはかつて我々が親しんだもので、最近はさっぱり見当たらないタイプのゲームだといえるのではないでしょうか。かつてと違うのは敵車に接触してもマイカーが大爆発しないことくらいです。セガについてあえて言うならそれはラッドモビールあたりまでは何らかの形で追求されてきたものが、ここにきて突然LE MANS 24に再び宿っているように見えます。
どちらにしろ人気にならないならどうでもいいじゃないか、という話かもしれませんが、わりと気になる話でもあるわけです。
▼そういえば、元旦ではないですけども、サンバDEアミーゴもプレイしましたよ。人間の「棒状のものを手に持つとハシャぐ」という特性を活かした素敵なゲームです。
1.3/2000 | ■ リコンフィギュアド |
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◆トップページの見ためとリードコピー(?)を新しくしました。 ◆ところで、crftmanshipの各日付の頭に飛ぶnameタグのフォーマットを今年から<a name="mmXXXXXX">というのにしたので気にするかたはどうぞ。XXXXXXが年月日で、mmはローマ数字ってことで。ソートの都合です。 |
1.5/2000 | ■ プレイ・アト・ディファレント・ルールズ |
▼例によって大きく振りかぶったトップページのリーダを何度も読み直して、ほんとにそういうことなのかと考えているdotimpactです。ほんとにそうだとして、ほとんど手とか頭に余る考えのようにも思えます。
もちろん、手とか頭に余るとはいえいろいろ考えるわけです。前から考えているところですが、コンピュータゲームをプレイするわれわれは、そのゲームにおけるコンピュータを、ある程度公正でありまたある程度は狡猾であり、それらにおいて熱心であるような存在(つまり一般のゲームにおける相手プレイヤー)であることを、たいていの局面でなぜか信じることができます(コンピュータについてある時点で「ズルしてんじゃないか?」と疑いを立てるということは、その時点まではズルしているとは思えなかったということでしょう。そもそも、なぜプレイヤーとコンピュータがフェアであると考えるのか?)。もちろんそのようなパートナーを想定することこそがゲームであり、遊びであるということなんでしょうけど、実際にはコンピュータゲームにおけるコンピュータというのは、そのようなプレイヤーの信頼を、「全く考慮しなくていい」存在なのだろうと思うわけです。むしろ「考慮してはいけない」とすら言えるかもしれない。可能である全ての手を使って「ズル」をする「コンピュータ」と、それを正当なゲームと受け取る「プレイヤー」とが、それぞれ全く別のルールによって同じゲームを行なうのが、コンピュータゲームというものの実際なのではないかと、僕は信じつつあります。クレイジーですか?
なおここでいうコンピュータの「ズル」というのを具体的にいうと、たとえば、「順位が下がるほど最高速度が上がる」というレースゲームがありますが、こういう、「プレイヤーが原理的に干渉しえないレベルにおいてゲームをコントロールする」ルールというのが、きわめてコンピュータゲーム的な「ズル」だと僕は考えています。あと前に書きましたがある種の脱衣マージャンでプレイすることになる『マージャン』みたいなのを想定してます。
たとえば不完全情報のシミュレーションゲームにおいて、コンピュータ側のユニットが索敵範囲外でプレイヤーのルール違反をしていたとしても、それがゲームであり(つまり、プレイヤーの側から矛盾と気付かせずに)、それがゲームをよりおもしろくする限りにおいてかまわないと、僕は考えます。可能ならば、完全情報のシミュレーションゲームであってもコンピュータはそのような「ズル」を企むべきだ、というのが僕の立場です。
加えて言うと、コンピュータゲームを「プレイヤー v.s. 開発者」という関係で考えるのは退屈だと僕は思います。開発者であってもそのゲームがおもしろいかどうかはプレイヤーとしてしか確かめえないのではないかと僕は考えていますし(開発者のかた、違ったら「違うよ」と教えてもらえると僕の妄想が解消されて助かります)、開発者がいかに尽力してバランスを調整しても、プレイヤーがそのバランスを逸脱してゲームを別のレベルに持ち込むというのは多くのゲームが証明しているところだと思うのです。その意味で、コンピュータゲームは開発者のものですらなく(もちろん開発者なんかえらくないと言っているのではありません)、その実相について誰も知りえない類のものなんではないかと思います。
あああ、書かれた文章の火を消すつもりが油を注ぐ結果になってしまいましたが、こういう議論が過去あったのかすら知らない僕はもうちょっとゲームについて考えることを続けるわけです。凡庸なまとめですが。
1.7/2000 | ■ プレイ・アト・ディファレント・ルールズ #2 |
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◆external linksにさっそくLAB*game(ラヴゲーム)を追加しましたよ。 |
▼さらに考えるdotimpactです。
先日書いた「コンピュータゲームというものの実際」をごく単純にいうと、いわゆるテーブルトークタイプのRPGでの「プレイヤー」と「ゲームマスター」の関係になぞらえることができます。
ゲームマスターは(「よいゲームマスター」は、というのが実際なんでしょうか)、プレイヤーのプレイに応じて、そのゲームをより盛り上げるために、「ズル」をすることが許されます。たとえばある局面でモンスターとの戦闘にプレイヤーパーティが予想外の苦戦を強いられ、次の戦闘にてその全滅が明らかである場合、次の戦闘のモンスターの戦闘力を現在のパーティの戦闘力を考慮した形で下げておき、絶体絶命の局面での戦闘をよりスリリングな形に演出する、というようなことが可能です。あるいはそのままにしておき、パーティに別の判断(逃亡とか)を促すことが可能です。このようなゲームマスターのコントロールを「ゲームの外のこと」だと考えるのは、あまり楽しい考え方ではありません。ゲームマスターはそのような形でゲームに参加するのであり、そのようにおこなわれるゲームマスターの「ゲーム」は、プレイヤーにおける「ゲーム」と本質的には同じものであるはずです。つまり、「そのゲームを面白くすること」を目的として、ゲームマスターとプレイヤーがそれぞれの立場においてできる限りのプレイをすることが、テーブルトークスタイルのゲームなのだと思うのです、理想的には。
という、以上のような考え方はテーブルトークタイプのRPGを知っているかたには理解してもらえるのではないかと思います。その上で、僕が先日書いた「コンピュータゲームというものの実際」というのが、「コンピュータゲームにおけるコンピュータはゲームマスターである」と言いたいのではない、ということも理解してもらえればと思います。「コンピュータはゲームマスターである」という考え方は、たかだか「プレイヤーとゲームマスターがいるゲーム」しか想定できないという意味で僕は採用しません。原理的には、「プレイヤーとゲームマスターがいるゲーム」をもコントロールできるのがコンピュータゲームなのだろうと、僕は考えます。
まだ続く、かも(手とか頭に余るので、反応/意見がいただけると…)。
1.21/2000 | ■ プレイ・アト・ディファレント・ルールズ #3 |
▼こんにちは。当面の難を逃れたdotimpactです。あんまり続いてないですが続きです。
▼コンピュータゲームにおいてコンピュータが原理上できることをあくまで「ズル」と呼び、しかもその「ズル」の主体を開発者としたがらない(いや、そうであってもいいと思っているんですが)のは、「コンピュータゲームのプレイヤーというのは何か」を僕が知りたがっているからなのですね。コンピュータゲームというものが、「コンピュータゲームとプレイヤーの関係」に端的に表れていて、そのへんからゲームについて何か別のことが言えるんじゃないか、というのが僕の考えです。
さて、例によってよく知らないで言うものですが、伝統的なゲームというのは、あらゆる意味で「どこかにあるもの」ではないはずです。ゲームはルールとプレイヤーによって成り立っていますが、「ルールもプレイヤーもゲームではない」わけですね。バットやボールや選手が野球なのではなく、ピッチャーがボールを投げてバッターが打つことこそが野球なのだという理屈です。
しかしです。この伝統的な理屈がコンピュータゲームにおいてどのくらい通用するのかというのは、案外むずかしい問題じゃないですかね。もちろんコンピュータゲームにもルールがありプレイヤーがいるわけですけど、それらと「ゲーム」の関係が、どうも変わってはいないか。伝統的なゲームがいわばルールとプレイヤーの「中に」あるとしたら、コンピュータゲームのゲームというのは、ルールとプレイヤーの「外に」ある、そんなイメージを僕は持ちます。
ルールやプレイヤーと無関係に「ある」ような「ゲーム」。僕が考えるコンピュータゲームというのはそういうようなもので、そうだとすればその「ゲーム」が「世界」に似ていくのはほとんど必然ではないかと思うのです。